動かし出した。たね子は角隠《つのかく》しをかけた花嫁にも時々目を注《そそ》いでいた。が、それよりも気がかりだったのは勿論皿の上の料理だった。彼女はパンを口へ入れるのにも体中《からだじゅう》の神経の震《ふる》えるのを感じた。ましてナイフを落した時には途方《とほう》に暮れるよりほかはなかった。けれども晩餐《ばんさん》は幸いにも徐《おもむ》ろに最後に近づいて行った。たね子は皿の上のサラドを見た時、「サラドのついたものの出て来た時には食事もおしまいになったと思え」と云う夫の言葉を思い出した。しかしやっとひと息ついたと思うと、今度は三鞭酒《シャンパン》の杯《さかずき》を挙げて立ち上らなければならなかった。それはこの晩餐の中でも最も苦しい何分かだった。彼女は怯《お》ず怯《お》ず椅子《いす》を離れ、目八分《めはちぶん》に杯をさし上げたまま、いつか背骨《せぼね》さえ震え出したのを感じた。
 彼等はある電車の終点から細い横町《よこちょう》を曲って行った。夫はかなり酔っているらしかった。たね子は夫の足もとに気をつけながらはしゃぎ気味に何かと口を利《き》いたりした。そのうちに彼等は電燈の明るい「食堂」の前へ
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