何《なん》で?」
夫はチョッキへ腕を通しながら、鏡の中のたね子へ目を移した。たね子と云うよりもたね子の眉《まゆ》へ。――
「職工か何かにキスされたからですって。」
「そんなことくらいでも発狂するものかな。」
「そりゃするわ。すると思ったわ。あたしもゆうべは怖《こわ》い夢を見た。……」
「どんな夢を?――このタイはもう今年《ことし》ぎりだね。」
「何か大へんな間違いをしてね、――何をしたのだかわからないのよ。何か大へんな間違いをして汽車の線路へとびこんだ夢なの。そこへ汽車が来たものだから、――」
「轢《ひ》かれたと思ったら、目を醒《さ》ましたのだろう。」
夫はもう上衣《うわぎ》をひっかけ、春の中折帽《なかおれぼう》をかぶっていた。が、まだ鏡に向ったまま、タイの結びかたを気にしていた。
「いいえ、轢かれてしまってからも、夢の中ではちゃんと生きているの。ただ体は滅茶滅茶《めちゃめちゃ》になって眉毛だけ線路に残っているのだけれども、……やっぱりこの二三日《にさんち》洋食の食べかたばかり気にしていたせいね。」
「そうかも知れない。」
たね子は夫を見送りながら、半《なか》ば独《ひと》り言《ご
前へ
次へ
全10ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング