った。が、たね子は心の中に何度もフォオクの使いかただのカッフェの飲みかただのと思い返していた。のみならず万一間違った時には――と云う病的な不安も感じていた。銀座の裏は静かだった。アスファルトの上へ落ちた日あしもやはり静かに春めかしかった。しかしたね子は夫の言葉に好《い》い加減な返事を与えながら、遅れ勝ちに足を運んでいた。……
 帝国ホテルの中へはいるのは勿論彼女には始めてだった。たね子は紋服《もんぷく》を着た夫を前に狭い階段を登りながら、大谷石《おおやいし》や煉瓦《れんが》を用いた内部に何か無気味《ぶきみ》に近いものを感じた。のみならず壁を伝わって走る、大きい一匹の鼠さえ感じた。感じた?――それは実際「感じた」だった。彼女は夫の袂《たもと》を引き、「あら、あなた、鼠が」と言った。が、夫はふり返ると、ちょっと当惑らしい表情を浮べ、「どこに?……気のせいだよ」と答えたばかりだった。たね子は夫にこう言われない前にも彼女の錯覚《さっかく》に気づいていた。しかし気づいていればいるだけますます彼女の神経にこだわらない訣《わけ》には行《ゆ》かなかった。
 彼等はテエブルの隅に坐り、ナイフやフォオクを動かし出した。たね子は角隠《つのかく》しをかけた花嫁にも時々目を注《そそ》いでいた。が、それよりも気がかりだったのは勿論皿の上の料理だった。彼女はパンを口へ入れるのにも体中《からだじゅう》の神経の震《ふる》えるのを感じた。ましてナイフを落した時には途方《とほう》に暮れるよりほかはなかった。けれども晩餐《ばんさん》は幸いにも徐《おもむ》ろに最後に近づいて行った。たね子は皿の上のサラドを見た時、「サラドのついたものの出て来た時には食事もおしまいになったと思え」と云う夫の言葉を思い出した。しかしやっとひと息ついたと思うと、今度は三鞭酒《シャンパン》の杯《さかずき》を挙げて立ち上らなければならなかった。それはこの晩餐の中でも最も苦しい何分かだった。彼女は怯《お》ず怯《お》ず椅子《いす》を離れ、目八分《めはちぶん》に杯をさし上げたまま、いつか背骨《せぼね》さえ震え出したのを感じた。
 彼等はある電車の終点から細い横町《よこちょう》を曲って行った。夫はかなり酔っているらしかった。たね子は夫の足もとに気をつけながらはしゃぎ気味に何かと口を利《き》いたりした。そのうちに彼等は電燈の明るい「食堂」の前へ
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