通りかかった。そこにはシャツ一枚の男が一人「食堂」の女中とふざけながら、章魚《たこ》を肴《さかな》に酒を飲んでいた。それは勿論彼女の目にはちらりと見えたばかりだった。が、彼女はこの男を、――この無精髭《ぶしょうひげ》を伸ばした男を軽蔑《けいべつ》しない訣《わけ》には行《ゆ》かなかった。同時にまた自然と彼の自由を羨《うらや》まない訣にも行かなかった。この「食堂」を通り越した後はじきにしもた[#「しもた」に傍点]家《や》ばかりになった。従ってあたりも暗くなりはじめた。たね子はこう云う夜《よる》の中に何か木の芽の匂《にお》うのを感じ、いつかしみじみと彼女の生まれた田舎《いなか》のことを思い出していた。五十円の債券を二三枚買って「これでも不動産《ふどうさん》(!)が殖《ふ》えたのだからね」などと得意になっていた母親のことも。……
次の日の朝、妙に元気のない顔をしたたね子はこう夫に話しかけた。夫はやはり鏡の前にタイを結んでいるところだった。
「あなた、けさの新聞を読んで?」
「うん。」
「本所《ほんじょ》かどこかのお弁当屋《べんとうや》の娘の気違いになったと云う記事を読んで?」
「発狂した? 何《なん》で?」
夫はチョッキへ腕を通しながら、鏡の中のたね子へ目を移した。たね子と云うよりもたね子の眉《まゆ》へ。――
「職工か何かにキスされたからですって。」
「そんなことくらいでも発狂するものかな。」
「そりゃするわ。すると思ったわ。あたしもゆうべは怖《こわ》い夢を見た。……」
「どんな夢を?――このタイはもう今年《ことし》ぎりだね。」
「何か大へんな間違いをしてね、――何をしたのだかわからないのよ。何か大へんな間違いをして汽車の線路へとびこんだ夢なの。そこへ汽車が来たものだから、――」
「轢《ひ》かれたと思ったら、目を醒《さ》ましたのだろう。」
夫はもう上衣《うわぎ》をひっかけ、春の中折帽《なかおれぼう》をかぶっていた。が、まだ鏡に向ったまま、タイの結びかたを気にしていた。
「いいえ、轢かれてしまってからも、夢の中ではちゃんと生きているの。ただ体は滅茶滅茶《めちゃめちゃ》になって眉毛だけ線路に残っているのだけれども、……やっぱりこの二三日《にさんち》洋食の食べかたばかり気にしていたせいね。」
「そうかも知れない。」
たね子は夫を見送りながら、半《なか》ば独《ひと》り言《ご
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