たね子の憂鬱
芥川龍之介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)夫《おっと》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)結婚|披露式《ひろうしき》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)しもた[#「しもた」に傍点]家《や》
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たね子は夫《おっと》の先輩に当るある実業家の令嬢の結婚|披露式《ひろうしき》の通知を貰った時、ちょうど勤め先へ出かかった夫にこう熱心に話しかけた。
「あたしも出なければ悪いでしょうか?」
「それは悪いさ。」
夫はタイを結びながら、鏡の中のたね子に返事をした。もっともそれは箪笥《たんす》の上に立てた鏡に映っていた関係上、たね子よりもむしろたね子の眉《まゆ》に返事をした――のに近いものだった。
「だって帝国ホテルでやるんでしょう?」
「帝国ホテル――か?」
「あら、御存知《ごぞんじ》なかったの?」
「うん、……おい、チョッキ!」
たね子は急いでチョッキをとり上げ、もう一度この披露式の話をし出した。
「帝国ホテルじゃ洋食でしょう?」
「当り前なことを言っている。」
「それだからあたしは困ってしまう。」
「なぜ?」
「なぜって……あたしは洋食の食べかたを一度も教わったことはないんですもの。」
「誰でも教わったり何かするものか!……」
夫は上着《うわぎ》をひっかけるが早いか、無造作《むぞうさ》に春の中折帽《なかおれぼう》をかぶった。それからちょっと箪笥《たんす》の上の披露式の通知に目を通し「何だ、四月の十六日《じゅうろくんち》じゃないか?」と言った。
「そりゃ十六日だって十七日《じゅうしちんち》だって……」
「だからさ、まだ三日《みっか》もある。そのうちに稽古《けいこ》をしろと言うんだ。」
「じゃあなた、あしたの日曜にでもきっとどこかへつれて行って下さる!」
しかし夫は何《なん》とも言わずにさっさと会社へ出て行ってしまった。たね子は夫を見送りながら、ちょっと憂鬱《ゆううつ》にならずにはいられなかった。それは彼女の体の具合《ぐあい》も手伝っていたことは確かだった。子供のない彼女はひとりになると、長火鉢の前の新聞をとり上げ、何かそう云う記事はないかと一々欄外へも目を通した。が、「今日《きょう》の献立《こんだ》て」はあっても、洋食の食べかたなどと云うものはなかった。洋食の食べかたなどと
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