云うものは?――彼女はふと女学校の教科書にそんなことも書いてあったように感じ、早速|用箪笥《ようだんす》の抽斗《ひきだし》から古い家政読本《かせいどくほん》を二冊出した。それ等の本はいつの間《ま》にか手ずれの痕《あと》さえ煤《すす》けていた。のみならずまた争われない過去の匂《におい》を放っていた。たね子は細い膝の上にそれ等の本を開いたまま、どう云う小説を読む時よりも一生懸命に目次を辿《たど》って行った。
「木綿及び麻織物|洗濯《せんたく》。ハンケチ、前掛、足袋《たび》、食卓《テエブル》掛、ナプキン、レエス、……
「敷物。畳《たたみ》、絨毯《じゅうたん》、リノリウム、コオクカアペト……
「台所用具。陶磁器類、硝子《ガラス》器類、金銀製器具……」
 一冊の本に失望したたね子はもう一冊の本を検《しら》べ出した。
「繃帯《ほうたい》法。巻軸帯《まきじくおび》、繃帯|巾《ぎれ》、……
「出産。生児の衣服、産室、産具……
「収入及び支出。労銀、利子《りし》、企業所得……
「一家の管理。家風、主婦の心得、勤勉と節倹、交際、趣味、……」
 たね子はがっかりして本を投げ出し、大きい樅《もみ》の鏡台《きょうだい》の前へ髪《かみ》を結《ゆ》いに立って行った。が、洋食の食べかただけはどうしても気にかかってならなかった。……
 その次の午後、夫はたね子の心配を見かね、わざわざ彼女を銀座《ぎんざ》の裏のあるレストオランへつれて行った。たね子はテエブルに向かいながら、まずそこには彼等以外に誰もいないのに安心した。しかしこの店もはやらないのかと思うと、夫のボオナスにも影響した不景気を感ぜずにはいられなかった。
「気の毒だわね、こんなにお客がなくっては。」
「常談《じょうだん》言っちゃいけない。こっちはお客のない時間を選《よ》って来たんだ。」
 それから夫はナイフやフォオクをとり上げ、洋食の食べかたを教え出した。それもまた実は必ずしも確かではないのに違いなかった。が、彼はアスパラガスに一々ナイフを入れながら、とにかくたね子を教えるのに彼の全智識を傾けていた。彼女も勿論熱心だった。しかし最後にオレンジだのバナナだのの出て来た時にはおのずからこう云う果物の値段を考えない訣《わけ》には行《ゆ》かなかった。
 彼等はこのレストオランをあとに銀座の裏を歩いて行った。夫はやっと義務を果した満足を感じているらしか
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