大正天皇の行幸し給へる最後の卒業式なりしなるべし。僕等は久米正雄《くめまさを》と共に夏の制服を持たざりし為、裸《はだか》の上に冬の制服を着、恐る恐る大勢《おほぜい》の中にまじり居たり。

     四

 僕はケエベル先生を知れり。先生はいつもフランネルのシヤツを着られ、シヨオペンハウエルを講ぜられしが、そのシヨオペンハウエルの本の上等なりしことは今に至つて忘るること能はず。

     五

 僕は確か二年生の時|独逸《ドイツ》語の出来のよかりし為、独乙大使グラアフ・レツクスよりアルントの詩集を四冊貰へり。然れどもこは真に出来のよかりしにあらず、一つには喜多床《きたどこ》に髪《かみ》を刈《か》りに行きし時、独乙語の先生に順を譲《ゆづ》り、先に刈らせたる為なるべし。こは謙遜《けんそん》にあらず、今なほかく信じて疑はざる所なり。
 僕はこのアルントを郁文堂《いくぶんだう》に売り金六円にかへたるを記憶す、時来《じらい》星霜《せいさう》を閲《けみ》すること十余、僕のアルントを知らざることは少しも当時に異ることなし。知らず、天涯のグラアフ・レツクスは今《いま》果《はた》赭顔《しやがん》旧の如く
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