ォ音を偸《ぬす》むようにはいって来た。なるほどどこかへ行った事は、袖《そで》に雨《あま》じみの残っている縞絽《しまろ》の羽織にも明らかだった。
「行って参りました。どうも案外待たされましてな。」
 神山は浅川の叔母に一礼してから、懐《ふところ》に入れて来た封書を出した。
「御病人の方は、少しも御心配には及ばないとか申して居りました。追っていろいろ詳しい事は、その中に書いてありますそうで――」
 叔母はその封書を開く前に、まず度《ど》の強そうな眼鏡《めがね》をかけた。封筒の中には手紙のほかにも、半紙に一の字を引いたのが、四つ折のままはいっていた。
「どこ? 神山さん、この太極堂《たいきょくどう》と云うのは。」
 洋一《よういち》はそれでも珍しそうに、叔母の読んでいる手紙を覗きこんだ。
「二町目の角に洋食屋がありましょう。あの露路《ろじ》をはいった左側です。」
「じゃ君の清元《きよもと》の御師匠さんの近所じゃないか?」
「ええ、まあそんな見当です。」
 神山はにやにや笑いながら、時計の紐《ひも》をぶら下げた瑪瑙《めのう》の印形《いんぎょう》をいじっていた。
「あんな所に占《うらな》い者《し
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