B」
「ちっとは楽になったと見えるねえ。」
 叔母は母の懐炉《かいろ》に入れる懐炉灰を焼きつけていた。
「四時までは苦しかったようですがね。」
 そこへ松が台所から、銀杏返《いちょうがえ》しのほつれた顔を出した。
「御隠居様。旦那様がちょいと御店へ、いらして下さいっておっしゃっています。」
「はい、はい、今行きます。」
 叔母は懐炉を慎太郎へ渡した。
「じゃ慎ちゃん、お前お母さんを気をつけて上げておくれ。」
 叔母がこう云って出て行くと、洋一も欠伸《あくび》を噛み殺しながら、やっと重い腰を擡《もた》げた。
「僕も一寝入りして来るかな。」
 慎太郎は一人になってから、懐炉を膝に載せたまま、じっと何かを考えようとした。が、何を考えるのだか、彼自身にもはっきりしなかった。ただ凄まじい雨の音が、見えない屋根の空を満している、――それだけが頭に拡がっていた。
 すると突然次の間《ま》から、慌《あわただ》しく看護婦が駆けこんで来た。
「どなたかいらしって下さいましよ。どなたか、――」
 慎太郎は咄嗟《とっさ》に身を起すと、もう次の瞬間には、隣の座敷へ飛びこんでいた。そうして逞《たくま》しい両腕に、
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