Aに無造作《むぞうさ》な目礼を返しながら、後《あと》に従った慎太郎へ、
「どうです? 受験準備は。」と話しかけた。が、たちまち間違いに気がつくと、不快なほど快活に笑いだした。
「こりゃどうも、――弟さんだとばかり思ったもんですから、――」
 慎太郎も苦笑した。
「この頃は弟さんに御眼にかかると、いつも試験の話ばかりです。やはり宅の忰《せがれ》なんぞが受験準備をしているせいですな。――」
 戸沢は台所を通り抜ける時も、やはりにやにや笑っていた。
 医者が雨の中を帰った後《のち》、慎太郎は父を店に残して、急ぎ足に茶の間へ引き返した。茶の間には今度は叔母の側に、洋一《よういち》が巻煙草を啣《くわ》えていた。
「眠いだろう?」
 慎太郎はしゃがむように、長火鉢の縁《ふち》へ膝《ひざ》を当てた。
「姉さんはもう寝ているぜ。お前も今の内に二階へ行って、早く一寝入りして来いよ。」
「うん、――昨夜《ゆうべ》夜っぴて煙草ばかり呑んでいたもんだから、すっかり舌が荒れてしまった。」
 洋一は陰気な顔をして、まだ長い吸いさしをやけに火鉢へ抛《ほう》りこんだ。
「でもお母さんが唸《うな》らなくなったから好いや
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