ゥけたまま、
「今田村さんから電話がかかって来ました。」と云った。
「何か用だったかい?」
洋一はそう云う間でも、絶えず賑《にぎやか》な大通りへ眼をやる事を忘れなかった。
「用は別にないんだそうで、――」
「お前はそれを云いに来たの?」
「いいえ、私はこれから工場まで行って来るんです。――ああ、それから旦那が洋一さんに用があるって云っていましたぜ。」
「お父さんが?」
洋一はこう云いかけたが、ふと向うを眺めたと思うと、突然相手も忘れたように、飾り窓の前を飛び出した。人通りも疎《まばら》な往来には、ちょうど今一台の人力車《じんりきしゃ》が、大通りをこちらへ切れようとしている。――その楫棒《かじぼう》の先へ立つが早いか、彼は両手を挙げないばかりに、車上の青年へ声をかけた。
「兄さん!」
車夫は体を後《うしろ》に反《そ》らせて、際《きわ》どく車の走りを止めた。車の上には慎太郎《しんたろう》が、高等学校の夏服に白い筋の制帽をかぶったまま、膝に挟《はさ》んだトランクを骨太な両手に抑えていた。
「やあ。」
兄は眉《まゆ》一つ動かさずに、洋一の顔を見下した。
「お母さんはどうした?」
洋一
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