う? もっとも向うの身になって見れば、母一人が患者《かんじゃ》ではなし、今頃はまだ便々《べんべん》と、回診《かいしん》か何かをしているかも知れない。いや、もう四時を打つ所だから、いくら遅くなったにしても、病院はとうに出ている筈だ。事によると今にも店さきへ、――
「どうです?」
洋一は陰気な想像から、父の声と一しょに解放された。見ると襖《ふすま》の明いた所に、心配そうな浅川《あさかわ》の叔母《おば》が、いつか顔だけ覗《のぞ》かせていた。
「よっぽど苦しいようですがね、――御医者様はまだ見えませんかしら。」
賢造は口を開く前に、まずそうに刻《きざ》みの煙を吐いた。
「困ったな。――もう一度電話でもかけさせましょうか?」
「そうですね、一時|凌《しの》ぎさえつけて頂けりゃ、戸沢さんでも好いんですがね。」
「僕がかけて来ます。」
洋一はすぐに立ち上った。
「そうか。じゃ先生はもう御出かけになりましたでしょうかってね。番号は小石川《こいしかわ》の×××番だから、――」
賢造の言葉が終らない内に、洋一はもう茶の間《ま》から、台所の板の間《ま》へ飛び出していた。台所には襷《たすき》がけの松
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