ると、そこには今し方帰ったらしい、夏羽織を着た父の賢造《けんぞう》が、長火鉢の前に坐っていた。そうしてその前には姉のお絹《きぬ》が、火鉢の縁《ふち》に肘《ひじ》をやりながら、今日は湿布《しっぷ》を巻いていない、綺麗《きれい》な丸髷《まるまげ》の襟足をこちらへまともに露《あらわ》していた。
「そりゃおれだって忘れるもんかな。」
「じゃそうして頂戴よ。」
 お絹は昨日《きのう》よりもまた一倍、血色の悪い顔を挙げて、ちょいと洋一の挨拶《あいさつ》に答えた。それから多少彼を憚《はばか》るような、薄笑いを含んだ調子で、怯《お》ず怯《お》ず話の後《あと》を続けた。
「その方《ほう》がどうかなってくれなくっちゃ、何かに私だって気がひけるわ。私があの時何した株なんぞも、みんな今度は下ってしまったし、――」
「よし、よし、万事呑みこんだよ。」
 父は浮かない顔をしながら、その癖|冗談《じょうだん》のようにこんな事を云った。姉は去年縁づく時、父に分けて貰う筈だった物が、未《いまだ》に一部は約束だけで、事実上お流れになっているらしい。――そう云う消息《しょうそく》に通じている洋一は、わざと長火鉢には遠い所
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