ノ無気味《ぶきみ》なほど険しくなった。
「好いやい。」
 兄はそう云うより早く、気違いのように母を撲《ぶ》とうとした。が、その手がまだ振り下されない内に、洋一よりも大声に泣き出してしまった。――
 母がその時どんな顔をしていたか、それは洋一の記憶になかった。しかし兄の口惜《くや》しそうな眼つきは、今でもまざまざと見えるような気がする。兄はただ母に叱られたのが、癇癪《かんしゃく》に障《さわ》っただけかも知れない。もう一歩|臆測《おくそく》を逞《たくまし》くするのは、善くない事だと云う心もちもある。が、兄が地方へ行って以来、ふとあの眼つきを思い出すと、洋一は兄の見ている母が、どうも彼の見ている母とは、違っていそうに思われるのだった。しかもそう云う気がし出したのには、もう一つ別な記憶もある。――
 三年|前《まえ》の九月、兄が地方の高等学校へ、明日《あす》立とうと云う前日だった。洋一は兄と買物をしに、わざわざ銀座《ぎんざ》まで出かけて行った。
「当分|大時計《おおどけい》とも絶縁だな。」
 兄は尾張町《おわりちょう》の角へ出ると、半ば独り言のようにこう云った。
「だから一高《いちこう》へはい
前へ 次へ
全60ページ中21ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング