は家へはひるんだから。」
「へえ、出ます。出ろと仰有《おつしや》らないでも出ますがね。姐《ねえ》さんはまだ立ち退《の》かなかつたんですかい?」
「立ち退いたのさ。立ち退いたんだけれども、――そんな事はどうでも好いぢやないか?」
「すると何か忘れ物でもしたんですね。――まあ、こつちへおはひんなさい。其処では雨がかかりますぜ。」
 彼女はまだ業腹《ごふはら》さうに、乞食の言葉には返事もせず、水口の板の間へ腰を下した。それから流しへ泥足を伸ばすと、ざあざあ水をかけ始めた。平然とあぐらをかいた乞食は髭《ひげ》だらけの顋《あご》をさすりながら、じろじろその姿を眺めてゐた。彼女は色の浅黒い、鼻のあたりに雀斑《そばかす》のある、田舎者らしい小女だつた。なりも召使ひに相応な手織木綿の一重物に、小倉《こくら》の帯しかしてゐなかつた。が、活《い》き活きした眼鼻立ちや、堅肥りの体つきには、何処か新しい桃や梨を聯想させる美しさがあつた。
「この騒ぎの中を取りに返るのぢや、何か大事の物を忘れたんですね。何です、その忘れ物は? え、姐《ねえ》さん。――お富さん。」
 新公は又尋ね続けた。
「何だつて好《い》いぢや
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