ないか? それよりさつさと出て行つておくれよ。」
 お富の返事は突慳貪《つつけんどん》だつた。が、ふと何か思ひついたやうに、新公の顔を見上げると、真面目にこんな事を尋ね出した。
「新公、お前、家の三毛を知らないかい?」
「三毛? 三毛は今|此処《ここ》に、――おや、何処《どこ》へ行きやがつたらう?」
 乞食はあたりを見廻した。すると猫は何時の間にか、棚の擂鉢《すりばち》や鉄鍋の間に、ちやんと香箱をつくつてゐた。その姿は新公と同時に、忽ちお富にも見つかつたのであらう。彼女は柄杓《ひしやく》を捨てるが早いか、乞食の存在も忘れたやうに、板の間の上に立ち上つた。さうして晴れ晴れと微笑しながら、棚の上の猫を呼ぶやうにした。
 新公は薄暗い棚の上の猫から、不思議さうにお富へ眼を移した。
「猫ですかい、姐さん、忘れ物と云ふのは?」
「猫ぢや悪いのかい?――三毛、三毛、さあ、下りて御出で。」
 新公は突然笑ひ出した。その声は雨音の鳴り渡る中に殆《ほとんど》気味の悪い反響を起した。と、お富はもう一度、腹立たしさに頬を火照《ほて》らせながら、いきなり新公に怒鳴りつけた。
「何が可笑《をか》しんだい? 家の
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