遠い所でも見るやうな目をした。
「何と云へば好いんだらう? 唯あの時はああしないと、何だかすまない気がしたのさ。」
――更に又何分かの後、一人になつた新公は、古|湯帷子《ゆかた》の膝を抱いた儘、ぼんやり台所に坐つてゐた。暮色は疎《まば》らな雨の音の中に、だんだん此処へも迫つて来た。引き窓の綱、流し元の水瓶《みづがめ》、――そんな物も一つづつ見えなくなつた。と思ふと上野の鐘が、一杵《いつしよ》づつ雨雲にこもりながら、重苦しい音を拡げ始めた。新公はその音に驚いたやうに、ひつそりしたあたりを見廻した。それから手さぐりに流し元へ下りると、柄杓《ひしやく》になみなみと水を酌《く》んだ。
「村上新三郎源の繁光、今日だけは一本やられたな。」
彼はさう呟きざま、うまさうに黄昏《たそがれ》の水を飲んだ。……
* * *
明治二十三年三月二十六日、お富は夫や三人の子供と、上野の広小路を歩いてゐた。
その日は丁度竹の台に、第三回内国博覧会の開会式が催される当日だつた。おまけに桜も黒門のあたりは、もう大抵開いてゐた。だから広小路の人通りは、殆ど押し返さないばかりだつ
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