まさか接吻はしないかも知れないけれどもいきなり舌を出すとか、あかんべい[#「あかんべい」に傍点]をするとかはしそうである。彼は内心|冷《ひや》ひやしながら、捜《さが》すように捜さないようにあたりの人々を見まわしていた。
するとたちまち彼の目は、悠々とこちらへ歩いて来るお嬢さんの姿を発見した。彼は宿命を迎えるように、まっ直《すぐ》に歩みをつづけて行った。二人は見る見る接近した。十歩、五歩、三歩、――お嬢さんは今目の前に立った。保吉は頭を擡《もた》げたまま、まともにお嬢さんの顔を眺めた。お嬢さんもじっと彼の顔へ落着いた目を注いでいる。二人は顔を見合せたなり、何ごともなしに行き違おうとした。
ちょうどその刹那《せつな》だった。彼は突然お嬢さんの目に何か動揺に似たものを感じた。同時にまたほとんど体中《からだじゅう》にお時儀をしたい衝動を感じた。けれどもそれは懸け値なしに、一瞬の間《あいだ》の出来事だった。お嬢さんははっとした彼を後《うし》ろにしずしずともう通り過ぎた。日の光りを透《す》かした雲のように、あるいは花をつけた猫柳《ねこやなぎ》のように。………
二十分ばかりたった後《のち》、保
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