1−94−42]骨《こうこつ》の名の高い彼の頸《くび》はいかなる権威にも屈することを知らない。ただし前後にたった一度、ある顔馴染《かおなじ》みのお嬢さんへうっかりお時儀をしてしまったことがある。お嬢さんは背は低い方かも知れない。けれども見たところはすらりとしている。殊に銀鼠の靴下の踵《かかと》の高い靴をはいた脚は――とにかく自然とお嬢さんのことを考え勝ちだったのは事実かも知れない。………
 翌朝《よくあさ》の八時五分|前《まえ》である。保吉は人のこみ合ったプラットフォオムを歩いていた。彼の心はお嬢さんと出会った時の期待に張りつめている。出会わずにすましたい気もしないではない。が、出会わずにすませるのは不本意のことも確かである。云わば彼の心もちは強敵との試合を目前に控えた拳闘家《けんとうか》の気組みと変りはない。しかしそれよりも忘れられないのはお嬢さんと顔を合せた途端《とたん》に、何か常識を超越した、莫迦莫迦《ばかばか》しいことをしはしないかと云う、妙に病的な不安である。昔、ジァン・リシュパンは通りがかりのサラア・ベルナアルへ傍若無人《ぼうじゃくぶじん》の接吻をした。日本人に生れた保吉は
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