れた記憶は仕合せと外には持つてゐない。いや、一度などはふとしたはずみに天使の来たのを感じたことさへある。
 或秋も深まつた午後、保吉は煙草を買つた次手《ついで》にこの店の電話を借用した。主人は日の当つた店の前に空気ポンプを動かしながら、自転車の修繕に取りかかつてゐる。小僧もけふは使ひに出たらしい。女は不相変《あひかはらず》勘定台の前に受取りか何か整理してゐる。かう云ふ店の光景はいつ見ても悪いものではない。何処か阿蘭陀《オランダ》の風俗画じみた、もの静かな幸福に溢れてゐる。保吉は女のすぐ後ろに受話器を耳へ当てたまま、彼の愛蔵する写真版の De Hooghe の一枚を思ひ出した。
 しかし電話はいつになつても、容易に先方へ通じないらしい。のみならず交換手もどうしたのか、一二度「何番へ?」を繰り返した後は全然沈黙を守つてゐる。保吉は何度もベルを鳴らした。が、受話器は彼の耳へぶつぶつ云ふ音を伝へるだけである。かうなればもう De Hooghe などを思ひ出してゐる場合ではない。保吉はまづポケツトから Spargo の「社会主義早わかり」を出した。幸ひ電話には見台《けんだい》のやうに蓋のなぞへにな
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