つた箱もついてゐる。彼はその箱に本を載せると、目は活字を拾ひながら、手は出来るだけゆつくりと強情にベルを鳴らし出した。これは横着な交換手に対する彼の戦法の一つである。いつか銀座|尾張町《をはりちやう》の自働電話へはひつた時にはやはりベルを鳴らし鳴らし、とうとう「佐橋甚五郎《さばしじんごらう》」を完全に一篇読んでしまつた。けふも交換手の出ない中《うち》は断じてベルの手をやめないつもりである。
 さんざん交換手と喧嘩した挙句《あげく》、やつと電話をかけ終つたのは二十分ばかりの後である。保吉は礼を云ふ為に後ろの勘定台をふり返つた。すると其処には誰もゐない。女はいつか店の戸口に何か主人と話してゐる。主人はまだ秋の日向《ひなた》に自転車の修繕をつづけてゐるらしい。保吉はそちらへ歩き出さうとした。が、思はず足を止めた。女は彼に背を向けたまま、こんなことを主人に尋ねてゐる。
「さつきね、あなた、ゼンマイ珈琲《コオヒイ》とかつてお客があつたんですがね、ゼンマイ珈琲つてあるんですか?」
「ゼンマイ珈琲?」
 主人の声は細君にも客に対するやうな無愛想である。
「玄米珈琲の聞き違へだらう。」
「ゲンマイ珈琲? あ
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