云ふ話しが一度起り掛けたが、それはとても不可能な事として断わって了ひその儘になってゐたのだった。
 志津は草削の手を休めて眼に沁む汗を拭いた。

 三代養子が続けば長者になると云ふ諺があるが森田家では四代も養子続きだった。
 祖母のお安は勝気者だったが子供が無かったので隣村の大屋から姪を連れて来た。それが志津の母親である。おたけ様と呼ばれてゐたが、「たけぢゃない、たァけだ」と蔭では云ふ者があった。血縁が絶えると云ふ訳なので、お安も目をつぶってゐた。父の紋治は岡島部落の岡島家から来た。岡島家は古い伝統を持ってゐる由緒有る大屋で、紋治は酒を飲むときっとそれが出た。
「俺の生れた家は勿体なくも御観音様が建てて下された家だぞよ」と云ふのである。
 絶えず妻を罵って二言目には「おん馬鹿さん!」と怒鳴った。
「そいでもおんの字とさんの字がつくだけいい!」
 蔭ではさう云って笑った。耕地の者が「お早うございます」と挨拶すると、「ウム!」と鼻の先であしらふのが紋治の癖だった。正月には耕地の者は折畳んだ一固めののし餅を持って御年始に行く習慣だった。返礼には固い串柿半重がきまりだった。
 志津の処へ天龍川
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