日夕日が土蔵の白壁を眩ゆく照り返した。
 池には山水が溢れ大きな緋鯉が跳ねてゐた。
 何も彼も有余る豊さで、恵まれて敬はれて人形のやうに大事に育てられてゐた。――
 それはもう遠い遠い昔の夢の様な記憶の断片だった。何も彼も煙のやうに消えてなくなって了って、今目の前には荒れ果てた桑の畑が在るばかりだと云ふ確な事実をどうすることも出来ないのだった。
 けれども志津は今その事を考へてはゐなかった。志津には何も考へられなかった。
 どうしたらこの苦しい現在をくぐり抜けて行かれるかといふこと以外には――
 その思ひでいつも頭が占領されてゐた。
 志津は四五日前、この冬死んだ妹の嫁ぎ先へ漸くの思ひで米を借りに行って来た時の事を思ふと思はず冷汗が流れる様な気がした。それは二里程離れた笠見部落の矢張り同族の大屋だった。
 妹の姑にあたる人が、玄米を一斗袋に入れ「お貸し申すのも何んだで、今度はまあ是だけお持ちておいでて……」
 さう憫《あは》れむやうな調子で云って渡して呉れたのだった。妹が生きて居たとしても行きにくい家だった。向うにも妹の子供が二人遺されてゐたので、志津の子供を皆連れて後妻に来て欲しいと
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