ゆるんできたようだ。自分は、また、ブレーキのことを思い出して、ぞっとした。
「うううううう。」
 くまはきゅうにまた、ものすごいうなり声をたてはじめた。さて、どうしたら、自分は制動室《せいどうしつ》へもどることができるであろうか?
「うわう……。」
と、一声、すさまじいうなり声をあげたと思うと、いきなりとびかかってきたくまの腹《はら》の下を、横にくぐりぬけるようにからだをなげだしたので、あぶないところで、自分はくまの爪《つめ》にかかることだけはのがれることができたのだが、さて、少し気が落着《おちつ》いてくると、おそろしさと不安《ふあん》とが、前の二|倍《ばい》になって自分の胸《むね》におしよせてきた。
 たった一つののがれ道だと思ったガラスまどは、くまの大きなからだで、すっかりふさがれてしまったのだ。自分とくまは、さっきとはまったく、あべこべになったわけだ。自分はまるでくまのおりへ入れられたようなものだ。
 さっきまでは、とにかくにげられそうな希望《きぼう》があった。まどへ両手《りょうて》をかけてさえしまえば、飛越台《とびこしだい》の要領《ようりょう》ででも、どうにか制動室へからだを運《はこ》ぶことができると思っていた。それがだめだとなると、自分はまったくもう、どうしていいかわからなくなってしまった。自分の命《いのち》があぶないばかりでなく、車掌《しゃしょう》として重大《じゅうだい》な任務《にんむ》をはたすことができない。非常信号機《ひじょうしんごうき》? ――そういうものがあればいいのだが、なにしろ、むかしの開通《かいつう》してまもなくの鉄道《てつどう》なのだから、そういう用意《ようい》がまるでないのだ。
 ともかく、じっとしてはいられないから、そろそろからだをおこしてみた。四つんばいになると、さっき投《な》げだした、シグナル・ランプのこわれがジャリジャリと手のひらにさわる。なまぐさい魚《さかな》のにおいにまじって、こぼれた石油《せきゆ》がプンと鼻《はな》をうつ。――なによりも大事《だいじ》な、たった一つの武器《ぶき》とも思っていたランプが、メチャメチャになってしまったのである。
「自分はなにを持ってくまと戦《たたか》ったらいいだろうか?」
 そう思うと自分はまったく絶望《ぜつぼう》してしまった。――それでも自分は、ガラスのかけらで手を切《き》らないように用心《ようじん》しながら、そろそろとあたりをかき探《さが》してみた。なんというあてもない、ただ自分は、むちゅうでそんなことをしていたのだ。
「うわう……。」
 くまは、またうなり声をあげた。自分は、ぎょっとして、そちらを見すかしたが、真暗《まっくら》やみの中で、よくは見えないが、くまは戸口に前足をかけたまま、動《うご》かずにいるようだ。
 自分は、その時、みょうなことを考えた。――いや、考えたことがらは、みょうでもなんでもないのだが、そんな、せっぱつまった場合《ばあい》に、よくも、あんな、のんきなことを考えだしたものだと、それがみょうなのだ。
 それは、自分がいままでにきいたくまについての、いろんなめずらしい話なのだ。そんなものが、つぎからつぎへと頭《あたま》にうかんできた。
 ……そのうちの一つは、ふいに山の中でくまにでくわした人の話だった。そういう場合に、死んだふりをするということはだれでも知っている。しかし、これは、それにしてもものすごい話だった。――その人は、やはり、どうすることもできず、仕方《しかた》なしにたおれて息《いき》を殺《ころ》していたのだそうである。くまが、頭《あたま》のそばへきて、自分をかぎまわしているのが、はっきりとわかる。かれは、まったく死んだようになって、心臓《しんぞう》の鼓動《こどう》までも止めるようにしていた。もっとも、そんな時にはかえって心臓はドキドキとはげしく打《う》ったことだろうが……。じょうだん[#「じょうだん」に傍点]はさておき、二|分《ふん》……三分……そのうちにくまのけはいがしなくなったように思われた。その男は、もういいだろうと思って、かすかにうす目をあいて見たのだそうだ。――その瞬間《しゅんかん》、ザクンと一打《ひとうち》、大きなくまの手が、かれの右の額《ひたい》から頭にかけて打ちおろされた。男は、むちゅうでバネ仕掛《じかけ》のようにとび上がって、あとはどうしたのか自分にはわからない。ともかくその男は助《たす》かったそうである。大方《おおかた》、くまもふいをうたれてびっくりしたのだろう。しかし、目をあいて見るまでの時間は、わずか一分か二分だったのだろうが、その男には、どんなに長く感《かん》じられたことだろう。――
 つい、話が横道《よこみち》にそれた。――しかし、くまといっしょに貨車《かしゃ》の中にとじこめられたまま、自分はま
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