ったく、そんな、人の話などを思いだしていたのだからみょうではないか。
「ごーっ。」
というひびきが、列車《れっしゃ》全体《ぜんたい》をつつむようにとどろきわたった。
「鉄橋《てっきょう》だ。」
と思うと、自分はもうじっとしていられなかった。川をわたってから約《やく》二マイルのところが例《れい》の難所《なんしょ》なのだ。機関士《きかんし》も、十分《じゅうぶん》に速度《そくど》を落《おと》しはするが、後部《こうぶ》のブレーキは、どうしてもまかなければならないことになっている。が、速度のついた列車が、機関車のブレーキ一つで支《ささ》え切《き》れないとすると、脱線《だっせん》か転覆《てんぷく》……か。わずか二、三|両《りょう》ではあるが、混合列車《こんごうれっしゃ》のことなので客車も連結《れんけつ》されている。その乗客《じょうきゃく》たちの運命《うんめい》は、まったく、自分ひとりの腕《うで》にあるといっていい。
 自分は、足をふみしめて立ち上がった。と、ふいに明かるい光が一すじ、目の前を走って、暗い車内にななめの線を落している。
「月だ……月の光だ!」
 貨車《かしゃ》の横腹《よこばら》にある大きな板戸《いたど》の、すきまをもれていましがた上がったと思われる月がさしこんできたのであった。自分は、なんというわけもなく勇《いさ》みたった。月の光をたどって見ると、さけの山にかけられたむしろ[#「むしろ」に傍点]が二、三|枚《まい》、足もとに落ちている。
「これだ。」自分は、とっさに思った。「火だ、火だ。」
 自分は、あせりにあせって、ポケットのマッチをさがそうとしたところが、どうしても手がポケットにはいらない。もどかしく思って、ぐッと手をおしこもうとすると、ポキリと折《お》れたものがある。見ると、それはろうそくではないか。――さっき、ころんだひょうしにポケットからとびだしたのを、むちゅうで、手さぐりでつかんでいたものとみえる。
 二、三本いっしょにマッチをすると、自分はまずそれをろうそくにうつした。――やぶれたガラスまどへ片手をつっこんだまま中腰《ちゅうごし》に立っているくまのすがたが、きゅうに明かるく照《て》らしだされた。にわかに火を見たくまの目は、ギロギロとくるいだしそうに光った。
 自分は、むしろに火をつけた。メラメラともえ上がったと思うと、しめり気《け》があるとみえて、すぐに力なく消《き》えそうになる。
 くまは、低《ひく》く長くうなりだした。それは、さっきまでほえたような声とちがって、大敵《たいてき》に出会《であ》った場合《ばあい》に、たがいにすきをねらってにらみ合っているような、不気味《ぶきみ》なものだった。
 こっちの火勢《かせい》がよわければ、今にもとびかかろうかという気配《けはい》が見えた。
 自分は、さっき石油《せきゆ》がこぼれたと思うあたりに、足で下に落ちているむしろをおしやり、手に持った一枚のもえかけたむしろを、楯《たて》のようにからだの前にかざしながら、足さきで、むしろに石油をしみこませようと、ごしごしと下のむしろをふみつづけた。
 くまは、まだうなりながら、自分をにらみすえている。
 手に持っているむしろが、消《き》えないうちに、手早《てばや》く自分は、床《ゆか》のむしろをひろい上げた。
 石油がしみたのか、むしろがかわいていたのか、今度《こんど》は、勢《いきおい》よく一時にパッともえついた。
 この機会《きかい》をはずしてはと、自分は、もう、おそろしさもわすれて――実《じつ》は、おそろしさのあまりだが――もえ上がるむしろを、ちょうど、スペインの闘牛士《とうぎゅうし》が使う赤いハンケチのようにふりながら、じりじりと前進《ぜんしん》した。
 鼻《はな》さきでもえる火を見ては、くまもがまんができなかったのだろう。どしんと大きな音をひびかせて、うしろへとびのいた。
 それといっしょに、またまどガラスの落ちくだける音がした。くまと自分ははじめと同じ位置《いち》にもどったわけだ。すみのかべ板《いた》に背中《せなか》をこすりつけて、立ったくまは、まるでまねきねこ[#「まねきねこ」に傍点]みたいなかっこうだった。(あとになってわかったことだが、くまは、ガラスまどに手をつっこんだひょうしに片手にけがをしたので、自然《しぜん》そんな手つきをしたのだ。)
 この時、だしぬけに汽笛《きてき》が、ヒョーと鳴《な》った。下《くだ》りのカーブにかかる合図《あいず》なのだ。
 自分でも、よく、それが、耳にはいったと思う。――自分は、なにもかもわすれて、うしろのガラスまどへ上半身《じょうはんしん》をつっこんだ。
 しかし、どうしても足がぬけない。死にものぐるいでもがいているうちに、さいわいに、手が、ブレーキのハンドルにかかった。
 自分は、宙《
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