刃が瞬間鋭くきらめいたが、忽ち拭われる様に消えた。藤本は血のしたたり落ちる右腕を支え乍ら、微笑を忘れていなかった。左右から警官に掴まれたその男は、荒々しい胸毛の胸をはだけて、闘犬の様に吠え立てた。
「俺は、白東会の前川だ、正成じゃないが、七度生れ変って国賊を誅すぞ」
 犯人を奪おうとして犇く群衆に、揉みほぐされそうになり乍ら警官は退場した。

 藤本の右腕は失われた、だが、彼の逞しい勇気には、失くした右腕だけ附加した様だ。
「なあ、慎ちゃん、こうして俺達の意志は鍛金の様に強くされるんや。白東会の彼等、俺が右腕やられたさかい、もう争議には出るまいて言いふらして居るそうだが、ふン、右腕一本位で、屁こたれる品物と、品物が違うわい。左手と足がまだ二本もあるやないか、かりに、これ皆やられて胴ばかりになっても、若し生きてさえいたら、俺は止めんぞ、そうなったら慎ちゃん、いざり[#「いざり」に傍点]勝五郎やないが乳母車にでも乗って、君に後押して貰うわははは」
「ああいいとも、後押しは引受けた。」
 藤本の凄まじい闘志に、却って励まされる形であったが、それでも慎作は、久しぶりで心の底からはっきりものを言った様に思った。とぐろを巻いていた心が、春を迎えた蛇のそれの様に、のろり[#「のろり」に傍点]と頭をもたげた様な気がした。自家の暗欝は、まだどうしても燃えない薪ではあったが、藤本の遭難は暗い心に一つの窓を開けてくれた。
 病院を同志の宮崎と連れ立って出た時は、黄昏《たそがれ》であった。宮崎は涙をためて藤本の闘志を讃嘆した。
「宮崎、やろうぜ、どうせ、階級戦線に骸《むくろ》を曝す吾々だ」
 慎作も合槌を打ちつつ、寧ろ自分に言い聞かせる気持だった。そうだ。まだ俺の心は死火山ではない筈だ。今に、藤本に負けない活動を初めるであろう。
 常設館の角を曲がってA川に沿って坂をのぼりつめるところ、A橋と小さい公園の入口とが、丁字形に接して居た。そこに夕照を受けて涼みの群が円を造くっていた。近寄るにつれて、はげしい拍手と笑声が聞えてきた。
「何んだろう」と、宮崎は小走りに寄って行った。慎作も大跨になり延びあがる様にして中心をすかし見たが、二三間先の宮崎が突然くるっと廻って慎作を睨み、何か訳の分からない叫けびをあげたので、中心に何があるか分からないままに立止まった。宮崎は何故か酷《ひど》く狼狽して、慎作の腕を掴んで橋を渡ろうとした。
「何だ、どうしたんだい」宮崎の腕にグングン引っぱられながら、後に凭れる様にして慎作は原因を探った。と、また、宮崎は急に立止まった。まじまじと慎作を見詰めて、徒に唇を歪めた。
「おい、喫驚《びっくり》させるなよ」と、呆れて慎作が叫けんだのと、聞覚えのある声を耳にしたのと、群衆の隙から眼球を引抜かれる様なものを一瞥したのと、殆んど同時だった。
「おおッ」慎作は泳ぐ様に群衆をかきのけた。クワッと最後の一炎をあげた晩暉の中に、拳で空を叩き、熱弁をふるっていたのは、盲縞の裾をはしょり、全身を痙攣させた、まぎれもない慎作の父だった。
「物持階級は百万円の問題である。吾々は団子の様に固まって……」
 父は据えきった眼をギロッギロッと人々の上に流して行ったが、突然、恰も空から落ちかかる何物かを受け止める様に、両手を高々と翳して、一語一語に永い尾を引かせて叫けんだ。
「十姉妹は悪いぞオ、なんぜ、皆は、鳥なんか飼うのかあ、丁と半とは仲々分からないぞオ、諸君、物持階級は百万円の問題であある。」
 誰れかが「ヒヤ」と弥次り、誰かが「ノー」と嘲笑った。怪訝《けげん》そうに足を止める新らしい通行人も、演説者の狂気を知ると安心して顔を崩した。
「……であるからして、吾々は団子の様に固まって……」父は、皮肉にも慎作の演説の端っくれを、而かも慎作そっくりの抑揚で叫けぶと、だしぬけに掩口された様に行詰まり、義眼の様に瞳孔を拡大させた。汗と涎《よだ》れが哀愁と憤怒の表情のまま氷りついた顔皮を、びっしょり濡らしていた。
「団子の様に固まってどうするのや」
「喰うのかい」
「この狂い、さっきから同じ事ばかり言いよるがな、浪花節でもやってんか」
 父は狂った。狂った父が、機械の様な饒説であった。昏倒しそうな衝動が慎作を一種の無感覚に誘ったが、次の刹那せき[#「せき」に傍点]を切った怒濤の様なものが、爆発した火華《ひばな》の様なものが、全身を狂い廻った。
 慎作は泥酔者の様によろめいて近寄った。
「おい、お父っつぁん、しっかりしてくれ、おい、おおいッ」
 涙で震える視野に、不審気な青い顔が、ぼッと霞んでいた。
「おい、分からないのかい、俺が――慎作が分からないのかい」
 襟首を鷲掴みにされて身悶えした父は、渋面一杯鯉の様にパクパク口を開き、何か叫び出しそうにした。群衆はどよめいて
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