十姉妹
山本勝治

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)旱《ひでり》の空は

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)お前等|呑気《のんき》そうに

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)何※[#感嘆符二つ、1−8−75]
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 田面には地図の様な線条が縦横に走って、旱《ひでり》の空は雨乞の松火《たいまつ》に却って灼かれたかの様に、あくまでも輝やき渡った。情けないほどのせせらぎにさえ仕掛けた水車を踏む百姓の足取りは、疲れた車夫の様に力が無く、裸の脊を流れる汗は夥しく増えた埃りに塗《まみ》れて灰汁《あく》の様だった。
 そして、小作争議事務所に当てたS寺の一室は日増しに緊張して行った。

「おい、遂々《とうとう》、彼奴等、白東会を雇いやがったぜ」引裂く様に障子を開けて入ってきた藤本は、一座を睨み廻して報告すると、新たに現われた敵を眼前に挑む様に唇を噛んだ。居合わせた者は一様に肩を揺すり眼を据えた。
「知ってるやろ、この県の白東会の支部長云うたら、ほら、この間町でコーヒ呑んだやろ、あの時隅に坐って俺達をにらんでいた紋付の羽織着てた奴、彼奴だよ、永い間東京をうろついていた、そら、町の前川新聞取次店の息子や……」
「ああ、胸毛の生えた、柔道二段とか云う、心臓の強そうな……」と誰かが訊くと、藤本はグッと首肯《うなず》いて胸を張った。
「そうや、あれで江戸仕込みの壮士やそうな、どうせ、腕力と心臓の強いだけが取柄の男さ、けど、注意せんと彼奴等の唯一の戦術である『切り込み』があるか知れんぜ、地主からだいぶ金も出てる様子やから……」
 藤本の歪めた唇には、激げしい敵愾心が、冷めたい微笑となって漂っていた。同じ想像と期待に、一座の顔は潮の引く様にすっと蒼ざめて、誰れもが深い溜息をついた。
 慎作は、勿論この報告に衝撃を受けた。が、その衝撃が、忽ち火に落ちた錫箔の様に崩折れて、燃えあがるべき反抗心が、雑草を揺がす一戦《ひとそよ》ぎの風ほどの力しかないのを如何《どう》することも出来なかった。一寸ひるがえった心が、直ぐと暗い懐疑と姑息な内省に重くよどんでしまった。慎作は、新らしく刺戟されて炎の様に闘志を沸き立たせて居る同志の前に、深く自分を恥じた。同時に、この心の秘密を持ちつつ、同志と共に嘆き共に憤っているかのように装っている自分に、たまらない憎悪を感ぜずにはいられなかった。やっぱり俺は駄目だ。この刺戟に於てさえ、自分の心は豚の様に無感動だ、俺はいよいよ戦列の落伍者だ。何時、何処で、どうして、あれほどまでに燃えあがっていた意識が、常夜燈の様に消えることのないと信じ切っていた反抗の火が、かくまで力弱くされたか自分ながら不可解だった。いや、諸々の原因は数えあげることは出来たが、その諸々の原因そのものが本来なれば胸の火をより燃え熾《さ》からしむべき薪である筈だった。この新らしい薪であるべき事柄が、何時の間にか石綿の様に燃えなくなった以上に、却って自分を卑怯にする鞭の役目を努めるとは、前線に立つ者にとって致命傷だと思った。だが、この理智に頓着なく慎作の心は懐疑に燻って羊の様に繊弱なものになる一方であった。理智と思想に於てはまだ、決して曇っていないと確信しているだけに、この脆弱な感情の泥沼から匍いあがろうとする焦燥は一倍強かったが、次々と周囲に起る事柄が反抗を薄めて、不可抗力に裾をかまれた様に動きがとれないのだった。
 そうだ。第一に暗い一家の現在が、慎作をひしぐ力の最大なものに違いはなかった。
 前年からの借金が抜けない上に、養蚕の不成功に次ぐこの大旱だった。家産を傾むけた正直一途というものよりほかに、何の才能も持合わせない父は、目前の仕事を唯がむしゃら[#「がむしゃら」に傍点]にするより思案が無かった。日向を追っかけ廻る様になっても、まだ維新当時、区長という大役の下命された名誉を、晩酌の酔と共に吹聴することを忘れない祖父は、去年の春、祖父そっくりの頑固者だった兄が死ぬと共に、飾るべき何物もなく、只、ストーヴのように温かい資本家を憎む思想と感情とを土産に、顔を蒼くし髪を長くして帰郷するやいなや、農民運動に寧日ない慎作を目の敵にして、事々に小姑の様な執拗さで盾付いた。母は洗濯とボロ綴りに総ての時間を消費し、妹の絹は、あどけなさと快活な足音とを何処かで失くした様な佗しい小娘だった。
 催促のはげしい負債返還の日が近づいても、一年の衣類代と肥料代に当てるべき養蚕の上り高さえ予想外に少くない現在如何にし様もない事は、碌々稼ぎを手伝えない慎作には身に沁みて分かっていた。仙人の様にしなびた脛を、一種超然たるあぐら[#「あぐら」に傍点]
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