身にして其の「我」に媚《こ》び、一種の実情を挿《さしはさ》んで之れに対すれば知らず、苟も美術として之れを賞翫《しやうぐわん》するにあたり、其の美処を描きたると醜処を描きたるとを問ふの必要あるか。むしろ美醜両面を併写《へいしや》せる真個の「我」を描写したる底の作物にこそ甚深《じんしん》の満足を感ずべきにはあらざるか。仮りに歩を譲りて国民の美質を描きたる作にあらずば以て国民的性情を満足せしむるあたはずとせんも、文学には尚人としての通情に訴ふる一面[#「尚人としての通情に訴ふる一面」に傍点](かりに抽象[#「抽象」に傍点]して言へば)あるを見る。かるが故に此《こゝ》に一コスモポリタン或《あるひ》は一外人を主題とせる一作物ありて其は主題の自然の結果として所謂《いはゆる》国民性に触れたるところ著明ならず(全く之れに触れずとは言ふ能はず)随うて仮りに国民としての意識の満足を此に見るを得ずとせんも、若《も》し件《くだん》の作にして或s易なる人生[#「不易なる人生」に傍点]の消息を描きたるの側ありとせば、吾人は之れに一種幽奥なる性情の満足を感ぜざるべきか。されど此《か》くの如き作は到底国民としての意識
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