忽《たちま》ち飛報あり電の如く彼の心を撃てり、曰く春水の病急なりと。彼は巻を投じて起てり、百里を五昼夜にして行けり。至れば即ち父の霊は既に其肉を離れてありし。孝子の恨何ぞ極まらん。彼は再び弟子の為めに荘子を講ずることをせざりき。彼の喪中に在るや嘗て其友篠崎承弼に語りて曰く、詩文為[#レ]生、不[#レ]得[#レ]不[#レ]作、聊断[#二]酒肉与[#一レ]内、欲[#レ]報[#二]罔極之万一[#一]耳と。彼は父の為に三年の喪を服せんと欲せり。いたく自ら節抑して以て其無限の悲哀を顕はせり。彼は自ら父の志に背くこと多きを知れり、是を以て父の死を悲しむや極めて切なりき。
文政元年彼は三年の喪を終りて終に鎮西《ちんぜい》の遊を試みたり。是より先き彼は屡々五畿及び江濃尾勢の諸国に漫遊せしかども未だ嘗て千里の壮遊を試みざりし也。此に於てか門人後藤世張を随へ手抄杜韓蘇古詩三巻、詩韻含英一部と外史の草稿とを携へて京を発し淀川を下り、大阪より篠崎承弼に送られて尼崎に至り、雨には即ち淹留《えんりう》し晴には即ち行き広島に至りて父の墓に謁し赤間関に淹留すること半月、年々摂酒附[#二]商舟[#一]、磊落万罌堆[#二]岸頭[#一]、清※[#「酉+票」、281−下−25]尤推鶴字号、駕[#二]人酔夢[#一]上[#二]楊州[#一]の詩あり。蓋し彼が酒を嗜《た》しむに至りしは此時に始まれる也。後来|梁川星巌《やながはせいがん》をして其死を聞きて人伝麹蘖遂為[#レ]災と歌はしめたる程の大酒家も三十九齢の当時までは酒量極めて浅かりし也。嗚呼彼は遂に酒の擒《とりこ》となれり。吾人は問[#レ]吾底事恋[#二]此間[#一]、豊筑無[#三]酒似[#二]赤間[#一]の詩を読む毎に未だ嘗て彼の為めに歎ぜずんばあらず。夫れ春水杏坪共に齢《よはひ》古稀《こき》を超へたり、頼氏固より長寿也、襄にして自愛せば其五十三齢に猶十年若くは二十年を加へ得べかりし也。思ふて此に至る吾人は星巌が飲を嗜まずして七十に達したるを彼の為に祝せざるを得ず。世に為す所あらんとするの士鑑みざるべからず。然りと雖も彼が酒を嗜む太甚《はなはだ》しきに至りし所以のもの実に其父を喪ひたる無限の憂愁を散ぜんとするに由る。果して然らば彼の志亦|憫《あはれ》むべき也。
彼は赤間関を発して始めて九州の地を踏めり。今詩集に因りて其の行程を案ずるに先づ豊前に入り、筑前を経《へ》、長崎に留連し、天草洋を航して島原に上陸し、熊本に至り、南下して薩摩に入り、大隅より再び肥後に還《かへ》り、更に豊後に行き、筑後河を下り、豊前より再び赤間関に至り、其所にて新年を迎へしが如し。蓋し其足迹の達せざる所唯日向一州あるのみ。九州の名山大川所謂温泉岳、高良山、阿蘇山、霧島山、耶馬渓《やばけい》、筑後河の類皆彼の詩中に入らざるはなし。彼は詩に於ても実際脈なり、其詠ずる所|尽《こと/″\》く取つて以て風土記に代ふべき也。吾人之を徳富蘇峰氏に聞く、其熊本を発する時の詩に大道平々砥不[#レ]如、熊城東去総青蕪、老杉夾[#レ]路無[#二]他樹[#一]、欠処時々見[#二]阿蘇[#一]と曰ふが如きは真に熊本市外の写真と謂つべしと。蘇峰氏は熊本県の人也、其言証とするに足る。蓋し彼と雖も時としては想像より搆造したる詩を作らざりしにはあらざりし。然も其実歴せし状況を見るがまゝに写し出すの伎倆に至つては日本詩人中彼を推して第一となさゞるを得ず。彼の詩は未だ嘗て実地を離るゝ能はざる也。彼は高き理想の中に住するの人に非ず。彼は唯只温情なる多血なる日本国民として日本国民なるが如く見る所を見し儘《まゝ》に聞く所を聞きしまゝに写し出せり。而して自然に吾人をして快読に堪へざらしむ。彼の詩は日本人に衣するに支那の衣裳を以てせしむるものなり。自然に是れ唐に非ず宋に非ず将た又明清に非ず、頼襄の詩也、日本人の詩也。
長崎は淫風の極めて太甚《はなはだ》しき地なり。襄の彼地に在るや屡々《しば/\》遊里に誘はれたりき。今日と雖も娼閣の壁上往々其旧題を見るといへり。然れ共彼の集に因りて之を察するに彼は喜んで狭斜の遊を為せしものに非りき。彼自ら詩を作りて其所懐を述べて曰く誰疑山谷堕[#二]泥犂[#一]、懶[#レ]学樊川張水嬉、唯使[#三]心膓如[#二]鉄石[#一]、不[#レ]妨筆墨賦[#二]氷肌[#一]。又曰く未[#レ]能[#三]茗椀換[#二]※[#「角+光」、第3水準1−91−91]船[#一]、何復繊腰伴[#二]酔眠[#一]、家有[#三]縞衣侍[#二]吾返[#一]、孤衾如[#レ]水已三年と。彼は喪に在るの間其愛妻とすら衾《きん》を共にせざりし也。如何ぞ独り長崎に於てのみ堕落せんや。況《いは》んや彼の此行固より空嚢《くうなう》たりしをや。古より名士は謗※[#「言+山」、第3水準1−91−94]《ばうせん》多し。吾人たとひ好む所に佞する者に非るも彼の為めに冤《ゑん》を解かざるを得ざる也。
文政二年は赤間関に迎へられたり。広島に帰り母を奉じ京師に入り西遊の行を終り更に母を伴ふて嵐山に遊び奈良芳野の勝を訪ひ侍輿百里度[#二]※[#「山+隣のつくり」、第4水準2−8−66]※[#「山+旬」、第3水準1−47−74][#一]、花落南山万緑新、筍蕨侑[#レ]杯山館夕、慈顔自有[#二]十分春[#一]の詩あり、終に送りて広島に還る。蓋し彼れ父に報ゆる能はざる所を以て之を母に報いんと欲せし也。是を以て平素の節倹なるにも似ず、母に奉ずる太だ厚かりし。爾来十年屡々広島に往復し母に伴ふて諸方に遊び其笑顔を見るを以て無上の楽とはなしたりき。
当時山陽外史の名隆々日の上るが如し。文人若し其許可を得れば恰《あたか》も重爵厚俸を得しが如くに喜びたりき。然れども翻《ひるがへ》つて彼の家政を察すれば即ち貧太甚しかりき。文政六年彼れ家を鴨河の岸三本木に買ひ水西荘と称す。所謂山紫水明処なり。然も行て其旧迹を見しものゝ言に因れば一間の茅屋のみ。即ち其見るに足らざる一草舎に佳名を付したるに過ぎざるや知るべきのみ。彼は自ら詩を作りて当時の境遇を序したりき。曰く
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今朝風日佳、北窓過[#二]新雨[#一]、謝[#レ]客開[#二]吾秩[#一]、山妻来有[#レ]叙、無[#レ]禄須[#二]衆眷[#一]、八口豈独処、輪鞅不[#レ]到[#レ]門、饑寒恐自取、願少退[#二]其鋭[#一]、応接雑[#二]媚※[#「女+無」、第4水準2−5−80][#一]、吾病誰※[#「金+乏」、282−下−25]鍼、吾骨天賦予、不[#レ]然父母国、何必解[#二]珪※[#「王+且」、282−下−25][#一]、今而勉齷齪、無[#三]乃欺[#二]君父[#一]、去矣勿[#レ]聒[#レ]我、方与[#二]古人[#一]語、
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星巌集を読めば彼も亦屡々貧を歌へり。千古の文人と雖も文学の趣味唯貴族の間にのみ行はれし封建の社会に在つては辛《から》ふじて不覊《ふき》独立の生計を為すを得しのみ。当時文人の運命真に悲しむべし。
爾《しか》く貧なりと雖も彼の家庭は幸福なるを得し也。彼の妻は彼の死後貞節を以て市尹《しゐん》より褒称《はうしよう》せられし程の人なり、彼も亦其妻に対して極て温情なる夫なりき。彼九州に遊びし時家を憶《おも》ふの詩あり、曰く客蹤乗[#レ]興輙盤桓、筐裡春衣酒暈斑、遙憶香閨燈下夢、先[#レ]吾飛過振鰭山、と。彼は其詩に屡々家庭の消息を泄《も》らせり。而して一も其夫妻相信じ子女|膝下《しつか》を廻る香しき家を想像するの料たらざるはなし。思ふに短気にして剛直なる彼を和らげて大過なからしめ家を治むる清粛にして敢て異言なからしめたるもの小石氏の如きは、名士の婦たるに恥ぢずと謂つべし。
彼が大納言日野資愛の門に出入し詩酒|徴逐《ちようちく》の会に侍せしは思ふに西遊より帰りし後に在らんか。日野氏は尋常の公卿に非りし也。彼は和漢の学に精通せり。其星巌集の序を読めば彼が多少人才を監識するの才を具せるを見るに足る。然れども襄は臣礼を取りて日野氏に事《つか》へざりき。只賓として友として日野氏と交れり。且曰く魚は琵琶の鮮に非れば喫する能はず、酒は伊丹の醸に非れば飲む能はずと。而して日野氏は善く之を容れて其無礼を尤《とが》めざりき。彼が詩に所謂吾骨天賦予なるものは空言に非る也。
文政十年母と杏坪翁とを奉じて嵐山に遊び遂に再び奈良芳野に行き更に近江の諸勝を訪ふ。京に還りて菅茶山の病を聞き往て之れを問ふ。会ふに及ばずして卒す。忘年呼[#二]小友[#一]、知己独此翁の詩あり。彼が菅茶山翁遺稿の序に曰く嗚呼吾先友海内数公、既漸凋落、独有[#二]翁在[#一]、猶[#二]碩菓之不[#一レ]食、而今復如[#レ]此、吾将誰望哉、と。秋風落葉を掃《はら》ふが如く名士漸く墓中に入る、多情なる彼は深く人間の恃《たの》むべからざるを感ぜしならん。
此年将軍家斉軍職に在りて太政大臣を兼ぬ、是れ蓋し史上未曾有の事なり。彦根の城主井伊|直亮《なほすけ》、桑名の城主松平定永は京都に遣《つか》はされて大拝の恩を謝せり。定永は即ち定信の子也、此行定信其臣を襄の家に遣り礼を卑くして外史を求めしむ、定信の賢は襄の稔聞する所なり。襄は喜んで之に応じたり、其知己の義に感ずれば也。後三年を隔てゝ天保元年定信卒す、襄乃ち文を作りて之を祭れり。当時天下第一の賢人は天下第一の文人を知れり。彼が心血の塊たる外史は松平定信に因りて其有用の著なることを証せられたり。彼が宿昔の心事|略《ほゞ》成れりと謂つべき也。
襄の交遊天下に遍《あまね》し、必しも一々之を記す能はざる也。而して其尤も莫逆《ばくぎやく》なるは即ち篠崎承弼の如きあり。彼は襄に推服して置かざりしなり。之を聞く承弼は中才の人なりと雖も極めて博聞強記なりしかば襄は屡※[#二の字点、1−2−22]彼に問ふて疑を決する所ありしと。其年輩に於て襄よりも老人なるは即ち太田錦城は十五歳の兄なり、大窪詩仏は十四歳の兄なり。其年襄よりも若きは即ち斎藤拙堂は十八歳の弟也、梁川星巌は九歳の弟也、大塩平八郎は十六歳の弟也。襄と平八郎と交を訂せしは蓋し襄の晩年に在り、当時平八郎年壮にして気鋭、陽明の学を脩《をさ》めて議論風生ず、而して襄は未だ嘗て之と学術を論ぜしことあらざりき。唯杯酒の間に於て交情を温めしのみ。而も彼の烱眼《けいがん》は早くより平八郎の豪傑なるを看取せり。古賀溥卿は嘗て平八郎が江戸に来りしとき恐るべき人物なりとして遇ふことを許さゞりき。二人の眼明かなりと謂つべき也。
天保元年襄胸痛を患ひしが久ふして癒《い》へたり。此年古賀溥卿其藩侯の為めに絹一幅を寄せて画を求む、襄は故人の求めなりとして之を甘諾する能はざりき。彼は儒者たるを甘んぜざる者なり、何ぞ況《いは》んや詩人文人たるを甘んぜんや。又何ぞ画師の如く遇せらるゝを喜ばんや、即ち二絶句を作りて其布に大書し之を返せり、其一に曰く曾謝横[#レ]経弄[#レ]翰儒、寧能余技備[#二]観娯[#一]、胸中書本猶堪[#レ]献、彷彿※[#「幽」の「幺」に代えて「豬のへん」、第4水準2−89−4]鳳七月国、顴高く眉|蹙《ちゞ》まれる老人は其眼を光らせて筆を揮《ふる》へり。彼時に五十一、英気堂々|猶《なほ》屈する所なき也。而して健康は彼の雄心に伴はず、病は突然彼をして永く黙せしめたり。
東山六六峰何処、雲鎖[#二]泉台[#一]惨不[#レ]開、歳在[#二]竜蛇[#一]争脱[#レ]※[#「戸の旧字+乙」、283−下−27]、人伝麹蘖遂為[#レ]災、一朝離[#レ]掌双珠泣、五夜看[#レ]巣寡鵠哀、彼此撫来最惆悵、海西有[#レ]母望[#二]児来[#一]。是れ梁川星巌が東海道に於て襄の訃音《ふいん》を聞きて寄せし所なり。其言何ぞ悲しきや。襄は天保三年九月二十三日を以て其の愛妻及び十歳の又二郎と七歳の三木三郎とを残して逝《ゆ》けり。是より前一年長子元協年既に二十、江戸に祗役《しえき》する為めに広島より至り、襄と京師に相遇ひ、江戸に至らば新に室を築いて父を迎ふべしと約せり。襄喜んで再び江戸に下り大に其伎倆を試みんこ
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