とを期せり。三年の春画富士に題して曰く自[#レ]別[#二]芙蓉[#一]三十年、空於[#二]図画[#一]弁[#二]雲煙[#一]、再会盪[#レ]胸当[#レ]有[#レ]日、白頭相照両※[#「白+番」、284−上−7]然と。然れども芙蓉は終に再び日本大詩人の面目を見ることを得ざりき。六月十二日彼は喀血《かくけつ》せり、而して医は其不治なるを告げたり。襄曰く吾上に母あり、志業未だ成らず、たとひ死せざるを得ざるも、猶医療を加ふべしと。彼は母の憂へんことを恐れて往復の書牘《しよとく》必らず自ら筆を把《と》ること常の如くしたりき。而して其晩年の著述たる政記を完成せんことを欲して死する迄眼鏡を着けて潤刪《じゆんさん》に怠らざりき。彼が通議の内庭篇は実に死するに先《さきだ》つ三日蓐を蹴て起ち草せし所なりき。思ふに松平定信は実に幕府後宮の譖《そしり》に因りて将軍補佐の任を罷《や》むるに至れり、目前の事斯の如し。彼が此篇ありし所以決して偶然ならざる也。而して其文整々堂々格律森厳|毫《がう》も老憊の態なし。其精力過絶なること斯の如し。而も彼は終に眠れり。
彼が遺物として日本に与へたるものは即ち外史二十二巻、政記十五巻、通議二巻、日本楽府一巻、其他文集詩鈔の類となす。彼が生涯の梗概は吾人既に之を掲《かゝげ》たり。要するに彼は漢学者なり、然れども彼は日本人なり。彼は日本人として日本の英雄を詠ぜり。日本人として日本の歴史を書けり、彼は感情に於て歴史的なり。此故に王朝の盛時を追懐しては現時の式微を歎じ、寛永の士風を追懐しては近世の軽薄を詈《のゝし》り、楠公の為めに慷慨の涙をそゝぎ、北条氏の専権に切歯せり。然れ共彼は又智識に於て歴史的なり。彼は革命に与《くみ》する者に非ず、哲学的の理想を有するものに非ず、此故に彼は物徂徠の如く想考的の政論を為す能はず。時勢と事情との二つは常に彼の立論の根拠たりし。思ふに彼をして安政文久の際に在らしむるも彼は決して純乎たる王政復古論を唱へ得るものに非ず。必らず島津斉彬《しまづなりあきら》氏一流の見に同じく先づ公武合体論を為して時の宜きに通ぜしめんと欲するに過ぎざらんか。然も彼に因りて日本人は祖国の歴史を知れり。日本人は日本国の何物たるかを知れり。日本国の万国に勝れたる所以を知れり。独り理論的を知れるのみならず詩の如く歌の如き文字を以て之れを教へられたり。後来海警屡※[#二の字点、1−2−22]至るに及んで天下の人心|俄然《がぜん》として覚め、尊皇攘夷の声四海に遍《あまね》かりしもの、奚《いづくん》ぞ知らん彼が教訓の結果に非るを。嗚呼《あゝ》是れ頼襄の事業也。
[#地から2字上げ](明治二十六年一月)
底本:「現代日本文學大系 6 北村透谷・山路愛山集」筑摩書房
1969(昭和44)年6月5日初版第1刷発行
1985(昭和60)年11月10日初版第15刷発行
入力:kamille
校正:鈴木厚司
2008年11月11日作成
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