頼襄を論ず
山路愛山
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)揮《ふる》ふ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)田沼|意次《おきつぐ》
z
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(例)※[#「口+斗」、277−上−10]
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(例)少小欲[#レ]為[#二]天下器[#一]
[#(…)]:訓点送り仮名
(例)海内[#(ノ)]豪傑[#(ニ)]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)各《おの/\》
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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文章即ち事業なり。文士筆を揮《ふる》ふ猶英雄剣を揮ふが如し。共に空を撃つが為めに非ず為《な》す所あるが為也。万の弾丸、千の剣芒、若《も》し世を益せずんば空の空なるのみ。華麗の辞、美妙の文、幾百巻を遺して天地間に止るも、人生に相《あひ》渉《わた》らずんば是も亦空の空なるのみ。文章は事業なるが故に崇むべし、吾人が頼襄《らいのぼる》を論ずる即ち渠《かれ》の事業を論ずる也。
頼春水大阪江戸港に在りて教授を業とす。年三十三にして室飯岡氏襄を生む、時に安永九年なり。正に是れ光格天皇御即位の年、江戸の将軍徳川家治の在職十九年、田沼|意次《おきつぐ》父子君寵を恃《たの》んで威権|赫灼《かくしやく》たる時となす。
王政復古の頂言者、文運改革の指導者たる大詩人は斯《かく》の如くにして生れたり。呱々《こゝ》乳を索《もと》むる声、他年変じて社会を呼醒し、人心を驚異せしむる一大|喚※[#「口+斗」、277−上−10]《くわんけう》と変ずべしとは唯天のみ之を知りたりき。
明《あく》れば天明元年、春水本国広島藩の聘《まねき》に応じて藩学の教授となれり。其婦と長子とを携へて竹原に帰り父を省し、更に厳島《いつくしま》の祠に詣づ、襄は襁褓《むつき》の中に龕前《がんぜん》に拝せり。竹原は広島の東十里に在り煙火蕭条の一邑《いちいふ》にして頼氏の郷里たり。春水の始めて仕《つか》ふるや当時藩学新たに建つに会し建白して程朱《ていしゆ》の学を以て藩学の正宗となさんと欲す。議者其偏私を疑ひしかば彼は学統論を作りて其非難を弁駁《べんばく》せり。
春水の斯の如くに程朱の一端に奔《はし》りし所以《ゆゑん》のもの、決して怪しむに足らず、何となれば渠は選択の時代に生れたればなり。蓋《けだ》し徳川氏天下を平かにせしより、草木の春陽に向つて萌※[#「くさかんむり/出」、第3水準1−90−76]《ばうさつ》するが如く、各種の思想は泰平の揺籃《えうらん》中に育てられたり。久しく禅僧に因りて有《も》たれたる釈氏虚無の道は藤原|惺窩《せいくわ》、林|羅山《らざん》の唱道せる宋儒理気の学に因りて圧倒せられ、王陽明の唯心論は近江聖人中江|藤樹《とうじゆ》に因りて唱《とな》へられ、古文辞派と称する利功主義は荻生徂徠に因りて唱へられ、古学と称する性理学は伊藤仁斎に因りて唱へられ、儒教と神道とを混じたる一種の哲学は山崎闇斎に因て唱へられ、各種各色の議論は恰《あたか》も鼎《かなへ》の沸くが如く沸けり。元禄より享保に至るまで人|各《おの/\》、自己独創の見識を立てんことを競へり。斯の如くにして人心中に伏蔵する思想の礦脈は悉《こと/″\》く穿《うが》ち出されたり。支那二十二朝を通じて顕れたる各種の思想は徳川氏の上半期に於て悉く日本に再現せり。創始の時代は既に過ぐ、今は即ち選択の時代なり。紛々たる諸説より其最も善きものを択んで之に従はざるべからずとは志ある者の夙《つと》に唱導する所なりき。渠は斯る空気の中に※[#「てへん+妻」、277−下−3]息し、柴野栗山、尾藤二洲、古賀精里等と共に宋儒を尊信して学統を一にせんとするの党派を形造りたりき。幕閣が異学の禁を布《し》きたるは寛政元年にして蓋し此党派の輿論を採用せしに過ぎざる也。
春水の名は其二弟春風杏坪と共に此時既に学者間に聞へたりき。彼は朱子派の儒者として端亮方正《たんりやうはうせい》の君子として、殊に善書の人として、其交遊の中に敬せられたりき。彼の未だ出でゝ仕へざるや其朋友等相共に広言して曰く百万石の聘に非《あらず》んば応ぜざるべしと。襄が春水より継承せし血液は此の如く活溌なるものにてありたりき。而して春水の室、即ち襄の母も亦尋常の婦人に非らず、襄が幼時の教育は実に彼女の自ら担当する処なりき。思ふに頼氏二世共に婚姻の幸福を有せり、春水は学識ある妻を有し、襄は貞節なる妻を有す、頼氏何ぞ艶福に富めるや。
烏兎※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々呱々の声は※[#「口+伊」、第4水準2−3−85]唔《いご》の声に化せり、襁褓中の襄は長じて童子となれり、教育は始められたり。藩学に通へる一書生は彼が句読の師として、学校より帰る毎に彼の家に迎へられたり。而して母氏も亦女紅の隙を以て其愛児を教育せり。後来の大儒は屡※[#二の字点、1−2−22]《しば/\》温習を懈《おこた》り屡※[#二の字点、1−2−22]睡れり。聡明なる児童には唯器械的に注入せらるゝ句読の如何《いか》に面白からざりしよ! 彼は此時より他の方向に向つて自ら教育することを始めたり。彼は論孟を抛《なげう》ちて絵本を熟視せり。義経、弁慶、清正の絵像を見てあどけなき英雄崇拝の感情を燃せり。嗚呼《あゝ》是れ渠が生涯の方角を指定すべき羅針に非ずや、彼は童子たる時より既に空文を厭ひて事実を喜べり。
此頃政治世界の局面は松平定信に因りて一変せり。将軍家治の晩年は正に是れ天下災害|頻《しき》りに至るの時なりき。天明三年襄年四歳信州浅間山火を発し灰関東の野を白くし、次で天下大に飢へ、飢民蜂起して富豪を侵掠す。若し英雄ありて時を済《すく》はずんば天下の乱近くぞ見へにける。是より先き定信安田家より出でゝ白河の松平氏を継ぎ、賢名あり、年|饑《う》ゆるに及んで部内の田租を免じ婢妾を放ち節倹自ら治む。寛政七年元旦慨然として歌ふて曰く少小欲[#レ]為[#二]天下器[#一]、誤将[#二]文字[#一]被[#二]人知[#一]、春秋回首二十七、正是臥竜始起時。此年家治|薨《こう》じ家斉十五歳の少年を以て将軍職を嗣《つ》げり。時勢は定信を起して老中となせり。定信|起《た》てり、先づ従来の弊政を矯《た》め、文武を励まし、節倹を勤め、以て回復を謀《はか》れり。当時松平越州の名児童走卒も亦皆之を知る。襄も亦其小さき耳の中に越州なる名詞を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]んで忘るゝ能はざりしなり。誰れか図らん後来此人乃ち襄が著書を求むるの人ならんとは、人間の遭際|固《もと》より夷の思ふ所にあらず。
頼氏は寧馨児《ねいけいじ》を有せり。襄の学業は駸々《しん/\》として進めり。寛政三年彼れ年十二、立志編を作りて曰く噫男児不[#レ]学則已、学当[#レ]超[#レ]群矣、古之賢聖豪傑、如[#二]伊傅[#一]如[#二]周召[#一]者亦一男児耳、吾雖[#レ]生[#二]于東海千歳之下[#一]、生幸為[#二]男児[#一]矣、又為[#二]儒生[#一]矣、安可[#レ]不[#下]奮発立[#レ]志以答[#二]国恩[#一]、以顕[#中]父母[#上]哉。翌年春水の祗役《しえき》して江戸に在るや、襄屡※[#二の字点、1−2−22]書を広島より寄せて父の消息を問ふ、書中往々其詩を載す。春水が交遊する所の諸儒皆舌を巻きて其|夙才《しゆくさい》を歎ぜり。薩州の儒者赤崎元礼、襄の詩を柴野栗山に示す。栗山は儒服せる豪傑なり、事業を以て自ら任ずる者也。襄後年之を評して曰く奇にして俊と。彼は固より英才を詩文の中に耗《へ》らすことを屑《いさぎよ》しとせざりき。今や友人春水の子俊秀|斯《かく》の如きを見て、彼は曰へり、千秋子あり之を教へて実才を為さしめず乃《すなは》ち詞人たらしめんと欲する乎《か》、宜しく先づ史を読んで古今の事を知らしむべし、而して史は綱目より始むべしと。元礼薩に還るとき広島を過ぎ襄に語るに此事を以てす。嗚呼是れ天外より落ち来れる「インスピレーション」たりし也。当時栗山の名が如何計《いかばか》り文学社会に重かりしかを思へば彼の一言が電気の如く少年頼襄をして鼓舞自ら禁ずる能はざらしめたるや知るべきのみ。大なる動機は与へられたり、大なる憤発は生ぜり、彼が後年史学を以て自ら任ずる者|蓋《けだ》し端を此に発す。
史学なる哉《かな》、史学なるかな、史学は実に当時に於ける思想世界の薬石なり。禅学廃して宋学起り宋学盛んにして陽明学興る。一起一倒要するに性理学の範囲を出でず、抽象し又抽象し推拓し又推拓す、到底一圏を循環するに過ぎず、議論|愈《いよ/\》高くして愈人生に遠かる。斯の如きは当時の儒者が通じて有する所の弊害なり。史学に非んば何ぞ之を済《すく》ふに足らん。曰く唐、曰く宋、或は重厚典雅を崇び、或は清新流麗を崇ぶ、時世の推移と共に変遷ありと雖《いへども》、究竟清風明月を歌ひ神仙隠逸を詠じ放浪自恣なるに過ぎず、絶へて時代の感情を代表し、世道人心の為めに歌ふものあるなし。斯の如きは当時の詩人が通じて有する所の弊害なり、史学に非んば何ぞ之を済ふに足らん。今や二個の岐路は襄の前に横はれり、一は小学近思録の余り多く乾燥せる道なり、一は空詩虚文の余り多く湿潤せる道なり。憐れなる少年よ、爾《なんぢ》若し右に行かば爾の智慧は化石せん。爾若し左に行かば爾の智慧は流れ去らん。只一道の光輝あり、爾をして完全なる線上を歩ましむるに足らん、即ち史学也。
寛政八年襄年十八、叔父頼杏坪に従つて東遊し昌平黌《しやうへいくわう》に学び尾藤二洲の塾に在り。此行一の谷を過ぎて平氏を吊《とむら》ひ、湊川《みなとがは》に至りて楠氏の墳に謁し、京都を過ぎて帝京を見、東海道を経て江戸に入る。到る処俯仰感慨、地理に因りて歴史を思ひ、歴史に因りて地理を按じ、而して其の吐て詩藻となるもの乃ち宛然たる大家の作也。孤鴻既に※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]群に投ず、彼の才の雄なる同学の諸友をして走り且|僵《たふ》れしめたるや想見するに堪《た》へたり。彼が線香一※[#「火+(麈−鹿)」、第3水準1−87−40]の間を課して四言三十首を作り以て其才を試みしは実に当時に在りとす。
読者若し渠《かれ》が楠河州を詠じたるの詩を読まば如何に勤王の精神が渠の青年なる脳中に沸々《ふつ/\》たるかを見ん。渠をして此処《こゝ》に至らしめたるものは何ぞや。嗚呼是れ時勢なるのみ。夫の勤王に狂せる上野の処士高山彦九郎は昔し嘗《かつ》て春水と相|識《し》るものなりき。而して彼が寄[#二]語海内[#(ノ)]豪傑[#(ニ)][#一]好在而已と遺言して筑後に自殺したるは実に寛政五年にして襄が年十四の時なりき。蓋し元和|偃武《えんぶ》以来儒学の発達と共に勤王の精神は発達し来り、其勢や沛然《はいぜん》として抗すべからず、或は源|光圀《みつくに》をして楠氏の碑を湊川に建てしめ、或は新井白石をして親皇宣下の議を呈出せしめ、或は処士竹内式部をして公卿の耳にさゝやひて射を学び馬を馳せしめ、或は兵学者山県大弐をして今の朝廷は覊囚の如しと歎息せしめ、或は本居宣長となりて上代朝廷の御稜威を回想せしめ、或は蒲生君平となりて涙を山陵の荒廃|堙滅《いんめつ》に濺《そゝ》がしめ、勤王の一気は江戸政府の鼎猶隆々たる時に在りて既に日本の全国に磅※[#「石+(くさかんむり/溥)」、第3水準1−89−18]《はうはく》したりき。寛政四年即ち彦九が死せし前年に方《あた》りて柴野栗山大和に遊び神武天皇の御陵を訪ひ慨然として歌ふて曰く遺陵纔向[#二]里民[#一]求、半死孤松数畝丘、非[#レ]有[#三]聖神開[#二]帝統[#一]、誰教[#三]品庶脱[#二]夷流[#一]、廐王像設専[#二]金閣[#一]、藤相墳塋層[#二]玉楼[#一]、百代本支麗不[#レ]億、幾人来[#レ]此一回頭。而して自ら陪臣邦彦と署す。襄や実に斯の如
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