き時勢に生れたり。宜《むべ》なるかな彼が勤王の詩人として起《た》ちしや。夫れ英雄豪傑は先づ時勢に造られて、更に時勢を造るもの也。襄の幼き耳は勤王の声に覚されたり、而して彼は更に大声之を叫んで以て他の未だ覚めざるものを覚さんとせり。
 跂《き》なる儒者尾藤二洲は春水の妻の姉妹を妻として春水と兄弟の交ありき。襄後年彼を評して曰く雅潔簡遠と。彼の人と為り実に斯の如くなりき。彼は今春水より其|鳳雛《ほうすう》を托せられたり、彼は喜んで国史を談じたりき、而して是実に襄の聞くを喜ぶ所なりき。夕日西に沈んで燈を呼ぶ時、一個の老人年五十二、一個の少年と相対して頻《しき》りに戦国の英雄を論ず。一上一下口角沫を飛ばして大声壮語す。二更、三更にして猶且|輟《とゞ》めざるなり、往々にして五更に至る。時に洒然《しやぜん》たる一老婦人あり室に入り来り少年を叱して去らしむ。老人顧みて笑ふ。当時会話の光景蓋し斯の如し。
 襄亦柴野栗山を訪へり。襄が栗山に於ける因縁誠に浅からざるなり。今にして相遇ふ多少の感慨なからんや。栗山問ふて曰く、綱目を読みしや否や、答へて曰く未だ尽《こと/″\》く読む能はずと雖も只其大意を領せりと。嗚呼唯大意を領せりの一句即ち襄が終身の読書法也。栗山|頷《うなづき》て曰く可也。
 襄江戸に在る一年にして去れり。而して彼は終に再び江戸の地を履《ふ》むことを得ざりし也。彼の還るや時正に初夏東山道を経て帰れり。夾山層巒翠※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28][#レ]天、濛々山駅雨為[#レ]煙、蓋し当時の光景也。
 父は光れり、子は曇れり。久太郎義近年兎角放縦に有之浪遊に耽り候故、親戚朋友切誠懇諭も仕候得共不相改、当月五日竹原大叔父病死仕候に付為弔礼家来添差遣仕候処途中より逐電仕候と悲しむべき報知の頼杏坪より九月十九日付にて其友篠田剛蔵に達したるときは正に是れ春水が赤崎元礼と共に特典を以て昌平黌に経を説きし年なりき。宿昔青雲の志今や漸く伸びて声名海内に揚れる時に方りて、其愛子は、特に竜駒鳳雛として、望を交友より属せられたる愛子は、蕩児《たうじ》とならんとせり。一栄、一辱、一喜、一憂、世態大概斯くの如し。然れども頼家も日本も頼襄が一たび血気の誘惑に遇ひしが為めに多く損ずる所あらざりし也。当時大坂の中井履軒は襄を責めて不孝の子なりとなし相見ることを許さず、親戚なる某は襄を以て無頼の子なりと云ひ藩人は襄を以て国恩を蔑《ないがし》ろにするものなりと議せしかども襄の叔父は善く襄の志を知るものなりき。彼が篠田に与へたる同じ書簡の一節は襄の為めに好個の弁護者たるに足れり。曰く「然し狂妄なりとも宿志も有之事と相見候へば」と襄の挙動は如何にも狂妄に見へしなるべし。然れども叔父は其中に一片の志あるを看取せり。叔父既に之を看取す。後人何ぞ紛々をする。
 頼襄の誘惑が如何程強きものでありしか、而して彼の為せし過は如何程大なるものでありしか、而して彼が此過失の為めに陥りし(或は好んで進み入りし)境遇は如何なるものでありしか、彼の伝を書くものは皆彼の為めに之を諱《い》めり。之を諱みしが為めに終に曖昧《あいまい》に陥れり。頼襄の生涯は猶一抹の横雲に其中腹を遮断《しやだん》せられたる山の如くなれり。只之が結果として知るべきは長子元協を生みし新婦御園氏の離別と京坂間をさまよひ歩きしことゝ数年間家に籠居せしことゝ仕籍を脱し叔父春風の子代りて元鼎春水の嗣となりしことのみ。而して彼自らは当時境遇を写すに窮愁の二字を以てせり。彼は実に此間に於て人生無数の憂患を味ひし也、人間の生涯が如何計り辛酸なるものであるかを味ひし也。之を聞く広島より厳島《いつくしま》に至る途上に一個の焼芋屋(?)あり、其看板は即ち彼の書きし所なりと。彼れの家に錮せらるゝや屡※[#二の字点、1−2−22]大字を書して之を売れり。思ふに其看板は即ち彼が当時の筆なり。千古の文士も一たびは焼芋屋の看板書きとなり下れり。
 不名誉なる放蕩の結果は彼をして其父の志に違ひ頼家の嫡子たる権利を失はしめたり。然れども彼れ頼家の嫡子たる権利を失ひしが為めに著述を以て世に著るゝを得たり。
 閉[#レ]門脩[#レ]史出[#レ]門遊、時追[#二]吟朋[#一]上[#二]画楼[#一]、落日蒼茫千古事、毛陶戦処是前洲。彼が日本外史の編述は当時に始れり。彼の自ら記す所に因りて之を按ずるに文化三年六月には外史を草して既に織田氏に及べり。彼時に年二十七、而して其年三十に及んでは既に全く稿を畢《をは》れり。知るべし日本の文学史に特筆大書して其大作たるを誇るべき日本外史は実に一個の青年男児に成りたるものなることを。是れ実に驚くべし。而《しか》も人|若《も》し何故に彼が外史の編述に志したるかを知り更に其著の目的と其結果との太《はなは》だ相違せしことを察すれば更に一層の驚歎を加ふべし。蓋《けだ》し彼は其生涯の後年に於てこそ所謂閑雲野鶴、頗《すこぶ》る不覊自由の人とはなりたるなれ当時に在りては猶純乎たる封建武士の子たりし也。而して彼の人と為りも亦容易に父母の国を離れ得るものに非りし也。彼は温情の人なり、恩に感じ易き人なり、知遇に讐《むく》ゐん為には何物をも犠牲に供し得る人なり、彼|奚《なん》ぞ容易に父母の邦を棄得んや、容易に天下の浪士となり得んや、彼は智識に於てこそ極めて改革的進歩的の男子なりしなれ情に於ては極めて保守的の人物たりし。冑山昨送[#レ]我、冑山今迎[#レ]吾、黙数山陽十往返、山翠依然我白鬚、故郷有[#レ]親更衰老、明年当[#三]復下[#二]此道[#一]。彼は封建の世界、道路の極めて不便なるときにすら、故郷の母を省する為には山陽道を幾たびも往還することを辞せざりき。彼が菅茶山に与ふる書を読むに其邦君の仁恕なるを称し且曰く天下之士誰不[#レ]被[#二]其国恩[#一]若[#レ]襄則可[#レ]謂[#二]最重[#一]矣と。彼は如何にしても其邦君を忘るゝ能はざりき。斯の如きの彼なるに彼は青年の時に於て既に封建を非とし自ら封建以外の民たるを期せりとは吾人の決して想像し能はざる所なり。されば彼の外史を書くや亦実に此を以て大日本史が水藩に於るが如く芸藩の文籍となさんと欲せしに過ぎざるのみ。彼が備後に在るとき築山奉盈に与ふる書に曰く愚父壮年之頃より本朝編年之史輯申度志御坐候処官事繁多にて十枚計致かけ候儘にて相止申候私儀幸隙人に御坐候故父の志を継此業を成就仕、日本にて必用の大典と仕、芸州の書物と人に呼せ申度念願に御坐候と。其松平定信に与ふる書に曰く少小嗜[#レ]読[#二]国乗[#一]、毎病[#二]常藩史之浩穣[#一]、又恨[#二]其有[#一レ]闕云々。彼の光を大日本史と競はんとするに在りしや知るべきのみ。而して其の躰裁《ていさい》に至りても亦一家私乗の体を為し藩主浅野氏の事を書するときは直ちに其名を称せざるが如き愈《いよ/\》以て外史の本色を見るべき也。其後に至りて所謂|拮据《きつきよ》二十余年|改刪《かいさん》補正幾回か稿を改めしは固より疑ふべからずと雖も筆を落すの始より筆を擱《お》くの終りに至るまで著者の胸中には毫末《がうまつ》も封建社会革命の目的若くは其影すらもあらざりしなり。誰れか図らん此|眇々《べう/\》たる一書天下に流伝して王政復古の預言者となり社会の改革を報ずる暁鐘とならんとは。
 文化七年の冬襄年三十、備後に行き菅茶山の塾を督す。築山奉盈に与ふる書又曰く去冬此方へ参候一件家長共私へ一向知らせ不[#レ]申間際に相成漸発言仕候、私好み不申事に御坐候へども已に願出の義今更辞退も難仕急に追立られ罷越候、其以来書生の世話無怠仕候へども何分不納得之義に御坐候へばつまらぬ者に御坐候と。然らば則ち彼の備後に行きしや固より其の好む所に非ざりし也。紙上功名添[#二]足蛇[#一]、漫追[#二]老圃[#一]学[#二]桑麻[#一]、野橋分[#レ]径斜通[#レ]市、村塾臨[#レ]流別作[#レ]家、読授[#二]児童[#一]遇[#二]生字[#一]、行沿[#二]籬落[#一]見[#二]狂花[#一]、笑吾故態終無[#レ]已、時復談[#レ]兵書[#二]白沙[#一]。誠に草屋にて馬子牛飼の外は談話する人もなし、回頭故国白雲下、寄[#レ]迹夕陽黄葉村、彼が当時の落莫知るべき也。独り茶山の彼が才を愛して其薄命を憫《あはれ》み誦讐応和以て日を度るあるのみ。彼が菅茶山翁遺稿の序に曰く余読[#レ]書処、与[#二]翁室[#一]隔[#二]水竹[#一]相対、毎[#レ]有[#二]評論[#一]、使[#二]童生※[#「敬/手」、第3水準1−84−92][#レ]巻往復[#一]、以[#レ]筆代[#レ]舌、如[#レ]此周歳と。当時の状見るが如し。然れども彼は終に此所に止る能はざりし也。彼が広島に在るや既に都会に住して名を天下に成さんとするの志あり。而して病雀|籠樊《ろうはん》に在り宿志未だ伸びず其備後に遣《おく》られし所以は以て彼が冲霄《ちゆうせう》の志を抑留し漸く之を馴致せんが為めのみ。而も彼れ奚ぞ終に籠中の物ならんや。彼は福山家老の方に詩会に招かるゝとき菅太中の養子のあしらひにて呼棄てにせらるゝに不平なり、妻を迎へよと勧めらるゝに不平なり、出でゝ事ふべしと勧めらるゝに至りて愈不平なり。即ち書を茶山に与へて曰く使襄禽獣、則可、苟亦人也、則何心処之、亦何面目以見[#二]天下之人[#一]乎と。彼は斯の如くにして去て京師に遊べり。時に文化八年年正に三十一。其書懐の詩に曰く聊取[#二]文章[#一]当[#二]結草[#一]、効[#レ]身未[#三]必在[#二]華替[#一]。其歳暮の詩に曰く一出[#二]郷関[#一]歳再除、慈親消息空如何、京城風雪無[#二]人伴[#一]、独剔[#二]寒燈[#一]夜読[#レ]書。
 彼が京都に住せしより声名は遽然《きよぜん》として挙がれり。此時に当りて学界の諸老先生漸く黄泉に帰す。文化四年には皆川淇園七十四にて逝《ゆ》き、柴野栗山七十二にて逝き、文化九年には山本北山六十一にて逝き、文化十年には尾藤二洲六十九にて逝く。旧き時勢は旧き人と共に去れり。文界学の新時代は来れり、而して頼襄は実に其代表者となれり。彼が感慨に富める詠史の詩は翼なくして天下に飛べり。彼の豊肉なる字躰は到る処に学ばれたり。竹田陳人が所謂挙世伝播頼家脚都門一様字渾肥といふもの、決して諛辞《ゆじ》に非りし也。彼は斯の如くに天下より景慕せられたり。書生は皆頼氏の門に向つて奔《はし》れり。文運は頼氏に因りて一変せられたり。彼は実に精神世界の帝王となれり。其一言一行は世人の熱心に注意する所となれり。其の言ふ所は輿論となるに足り、其詩賦は一世を鼓舞するに足れるものとなれり。彼が一度大所へ出でゝ当世才俊と呼ばるゝものと勝負を決したしてふ志願は成れり。而して彼は実に天下に敵なきものとして立てり。
 文化十年春水年六十八、孫元協を携へて東遊す。茶山之を襄に報ず。襄驚喜淀川を下りて彼等を大阪に迎へ、京都に一屋を借りて歓待旬余弟子をして周旋せしむ。相見ざること数年互に久濶を序す。思ふに春水既に老す、老ひては即ち子を思はざるを得ず。彼たとひ一たびは襄が家学を継承せずして仕籍を脱したることを悲めりと雖も襄の名天下に高きに及んでは即ち亦其老心を慰むる所なきにあらざるべし。吾人は濃情なる父と子が幼孫を傍らに侍せしめて往事を語り悲喜|交※[#二の字点、1−2−22]《こも/″\》至れるの状を想見して彼等の為に祝せずんばあらず。翌年襄始めて帰省し孤枕曾労千里夢、一燈初話五年心の詩あり、爾来《じらい》殆んど年毎に往返す。
 文化十二年襄父の病を聞きて再び帰省す。父は死せずして元鼎死す、即ち元協を以て承祖の嗣となす。父の病少しく愈《い》ゆるを以て京に還る、襄が賢妻小石氏を娶《めと》りしは蓋し此前後に在り。此年除夜の詩に曰く為[#レ]客京城五餞[#レ]年、雪声燈影両依然、爺嬢白髪応[#レ]添[#レ]白、説[#二]看吾儂[#一]共不[#レ]眠と。嗚呼爺嬢豈唯白髪を添へしのみならんや。翌年二月襄生徒を集めて荘子を講じつゝありしとき、
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