の時なりき。蓋し元和|偃武《えんぶ》以来儒学の発達と共に勤王の精神は発達し来り、其勢や沛然《はいぜん》として抗すべからず、或は源|光圀《みつくに》をして楠氏の碑を湊川に建てしめ、或は新井白石をして親皇宣下の議を呈出せしめ、或は処士竹内式部をして公卿の耳にさゝやひて射を学び馬を馳せしめ、或は兵学者山県大弐をして今の朝廷は覊囚の如しと歎息せしめ、或は本居宣長となりて上代朝廷の御稜威を回想せしめ、或は蒲生君平となりて涙を山陵の荒廃|堙滅《いんめつ》に濺《そゝ》がしめ、勤王の一気は江戸政府の鼎猶隆々たる時に在りて既に日本の全国に磅※[#「石+(くさかんむり/溥)」、第3水準1−89−18]《はうはく》したりき。寛政四年即ち彦九が死せし前年に方《あた》りて柴野栗山大和に遊び神武天皇の御陵を訪ひ慨然として歌ふて曰く遺陵纔向[#二]里民[#一]求、半死孤松数畝丘、非[#レ]有[#三]聖神開[#二]帝統[#一]、誰教[#三]品庶脱[#二]夷流[#一]、廐王像設専[#二]金閣[#一]、藤相墳塋層[#二]玉楼[#一]、百代本支麗不[#レ]億、幾人来[#レ]此一回頭。而して自ら陪臣邦彦と署す。襄や実に斯の如
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