じ婢妾を放ち節倹自ら治む。寛政七年元旦慨然として歌ふて曰く少小欲[#レ]為[#二]天下器[#一]、誤将[#二]文字[#一]被[#二]人知[#一]、春秋回首二十七、正是臥竜始起時。此年家治|薨《こう》じ家斉十五歳の少年を以て将軍職を嗣《つ》げり。時勢は定信を起して老中となせり。定信|起《た》てり、先づ従来の弊政を矯《た》め、文武を励まし、節倹を勤め、以て回復を謀《はか》れり。当時松平越州の名児童走卒も亦皆之を知る。襄も亦其小さき耳の中に越州なる名詞を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]んで忘るゝ能はざりしなり。誰れか図らん後来此人乃ち襄が著書を求むるの人ならんとは、人間の遭際|固《もと》より夷の思ふ所にあらず。
 頼氏は寧馨児《ねいけいじ》を有せり。襄の学業は駸々《しん/\》として進めり。寛政三年彼れ年十二、立志編を作りて曰く噫男児不[#レ]学則已、学当[#レ]超[#レ]群矣、古之賢聖豪傑、如[#二]伊傅[#一]如[#二]周召[#一]者亦一男児耳、吾雖[#レ]生[#二]于東海千歳之下[#一]、生幸為[#二]男児[#一]矣、又為[#二]儒生[#一]矣、安
前へ 次へ
全33ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
山路 愛山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング