の襄は長じて童子となれり、教育は始められたり。藩学に通へる一書生は彼が句読の師として、学校より帰る毎に彼の家に迎へられたり。而して母氏も亦女紅の隙を以て其愛児を教育せり。後来の大儒は屡※[#二の字点、1−2−22]《しば/\》温習を懈《おこた》り屡※[#二の字点、1−2−22]睡れり。聡明なる児童には唯器械的に注入せらるゝ句読の如何《いか》に面白からざりしよ! 彼は此時より他の方向に向つて自ら教育することを始めたり。彼は論孟を抛《なげう》ちて絵本を熟視せり。義経、弁慶、清正の絵像を見てあどけなき英雄崇拝の感情を燃せり。嗚呼《あゝ》是れ渠が生涯の方角を指定すべき羅針に非ずや、彼は童子たる時より既に空文を厭ひて事実を喜べり。
 此頃政治世界の局面は松平定信に因りて一変せり。将軍家治の晩年は正に是れ天下災害|頻《しき》りに至るの時なりき。天明三年襄年四歳信州浅間山火を発し灰関東の野を白くし、次で天下大に飢へ、飢民蜂起して富豪を侵掠す。若し英雄ありて時を済《すく》はずんば天下の乱近くぞ見へにける。是より先き定信安田家より出でゝ白河の松平氏を継ぎ、賢名あり、年|饑《う》ゆるに及んで部内の田租を免
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