。頃者激する所ありて生来|甚《はなは》だ好まざる駁撃の文を草す。草し終りて静に内省するに、人を難ずるの筆は同じく己れを難ぜんとするに似たり。是非曲直|軽《かろ/″\》しく判し難し。如《し》かず修練鍛磨して叨《みだ》りに他人の非を測らざることをつとむるに。
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と。吾人は彼が批評の関頭既に一歩を誤るを知れり。批評豈他人を是非する者ならんや。
吾人の批評は正しく他人を画かんと欲する耳《のみ》。伝記若し人の外観的記載といふべくんば批評は人の内観的記載のみ。
吾人が此所に之を記し置く所以《ゆゑん》の者は夫の局量狭隘の徒、自尊卑他なる文学的「パリサイ」人が紛々|喧々《けん/\》たらんことを恐れて、予《あらかじ》め彼等が口を塞《ふさ》がんが為のみ。
田口卯吉君と其著述(一)
慶応の年中中根|淑《きよし》君と同じく洋書を読みし童子。駿河の沼津に於て郷校に学びし童子。江原素六氏の監督せる沼津兵学校に学びし書生。彼は寛弘《くわんこう》の被覆の下に多感の性情を蔵し、愚かなるが如き態度の下に数学的、組織的、解剖的の能力を秘め、吶弁《とつべん》の下に天才を蓄へしが、幕府の覆滅と共に敗者の運命を蒙りたる一家の中に生れて、善く之に堪《た》へ、独力を以て自己の運命を開拓せり。田口卯吉なる名は早く既に明治十二三年の交に於て天下に重かりしなり。
カライル氏同じ蘇格蘭《スコットランド》の農詩人たるバルン氏を論ずるや曰く、蒸気機関の後に立つ侏儒《しゆじゆ》は山岳を移し得べし、然れども彼は鋤《すき》を以て山を覆し能はざるなり、と曰ひて彼が無教育にして大文家たりしことを賞讃せり。吾人も亦田口君に於て斯《かく》の如く言ふの権利を有す。今日に於て許多の便宜を有する人々の眼より見れば、彼は少《いさゝ》かの学問を有する人の如く見ゆべし。彼文字は美文的の技術に乏しきが如く見ゆべし。種々の点に於て彼は其修業の不完全なりしことを嗤笑《しせう》さるゝなるべし。彼の漢文は或は漢学者の物笑ひたるべし。彼の史論は或は考証家の首肯《しゆこう》せざる所なるべし。彼の専門とする経済学も、彼をして人毎に一つの癖はある者を我には許せ経済の遠《みち》と洒落《しやれ》しめたる経済学も、或は古風なる「マンチェスター」派のものなりと顧みざる者もあらん。種々の点に於ても彼は種々の欠点を見出さるゝなるべしと雖も怪しむ勿《なか》れ、彼は多く学問し多く詮索するの機会を有せざりしなり。
人若し少なき学問を以て多く考ふることを得ば其少なき学問は寧《むし》ろ彼の誇るべき者なり。
天下自ら運命を作れる人は皆不完全なる武器を以て大なる事を遂《と》げたる者なり。
乞ふ吾人をして彼の著書を細評する前に、先づ其大躰に就て一二言ふ所あらしめよ。
(一)玲瓏《れいろう》なる理解力 吾人は彼に於て始めて堅硬なる思想を見るを得たり。彼は其言ふ所を明かに知れるなり、彼の脳髄は整へり。世の文学者なる者、自らは空言に非ずと信じて書くことにても、思想錯雑して前後衝突し論理的に之を煎《せん》じ詰《つめ》れば結局空論に化して自らも之を驚く者あり。
其論文の構造は如何にも華麗にして恰《あたか》も蜃気楼《しんきろう》の如くなれども堅硬なる思想の上に立たざるが故に、一旦|破綻《はたん》を生ずれば破落々々となり了《をは》る者あり。甚しきに至つては、徒《いたづ》らに知らぬ事を喋々《てふ/\》し一知半解識者をして嘔吐《おうと》を催さしむる者あり。然れども田口君の論文に至ては毫末も斯の如きの病なし。彼は事理を見るに明かなり。故に横に之を説くも竪《たて》に之を論ずるも、如何なる攻撃に遇ふも、如何なる賞讃に遇ふも彼は動かざるを得るなり。白旗不[#レ]動兵営静なりとは彼が論文を形容すべき好辞なり。
田口卯吉君と其著述(二)
(二)数学的の脳髄 数学は諸学科の基本なれども久しく我学者間に軽蔑せられたりき。関新助、渋川春海、中根玄圭の如き諸大家――我国のニュートンとも曰《い》ふべき大科学家――も新井白石、頼山陽等の人口に籍々《せき/\》たるに反対して、殆んど知られずに過ぎたりき。然れども地底の岩を音なしに流るゝ水こそ地面を膏腴《かうゆ》[#「腴」は底本では※[#「月+叟」、第4水準2−85−45]]にする者なり、彼れ数学者が人知らず辛棒《しんぼう》せし結果は我人民の推理力を養うて第十九世紀科学|跋扈《ばつこ》の潮流に合することを能《よ》くせしめたりき。果然経済学の唱道者は数学者の子孫より出でたり、田口君の推理力は其母方の血統なりとか聞く佐藤一斎に出でしにはあらずして其父方の血統に出でしなり。田口某君と称する彼の先考は実に数学者なりしなり。彼れは幕府天文方の吏として世に知られざる生涯を送りしかども、彼れが養
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