ひ得たる数学的脳髄は田口君が解剖的組織的の天才となりて明治の時代に称讃せらるゝに至りぬ。
 彼の脳髄が如何計《いかばか》り数学的なるやは彼の書きしものが悉《こと/″\》く条理整然として恰も幾何学の答式を見るが如くなるに因《よ》りて知らる。吾人は彼の統計表、計算表、相場表の如き者を捕へて之を巧みに使用し、二と二とを合するが故に四なりと云ふが如き口調を以て人を説き伏することの如何にも巧なるに驚歎す。
 若《も》し夫れ環の端なきが如く、繚繞《れうぜう》として一個の道理を始より終りまで繰り返へし、秩序もなく、論式もなく、冒頭もなく結論もなく、常山の蛇の首尾|尽《こと/″\》く動くが如く、其一段、一節を切り取るも完全の意味を有し、而して其全躰を見るも其文路に段落の分つべきなきエメルソンの文の如く、植村正久氏の文の如く、寧ろ散文の詩と云ふべきものに至りては田口君の作に於て只一編だも見るべからず。彼は斯の如くなる能はざるなり、斯の如くなるを好まざるなり。
(三)何物をも見遁《みのが》さゞる敏捷《びんせふ》  徳富蘇峰の将来之日本を以て世に出づるや、彼れは世界の将来が生産的に傾くべきを論ずる其著述に於て、杜甫《とほ》の詩を引証し、伽羅千代萩《めいぼくせんだいはぎ》の文句を引証し、其「コーデーション」の意外なる所に出づるを以て世を驚かしめたりき。夫れ水上の藁《わら》何か有らん、然れども其流るゝ方向は即ち水の方向なりとせば、一片の藁も亦意味を有するなり。読書之楽何処尋、数点梅花天地心。彼れは此中の消息を解する者なり。而して田口君は此点に於て太《はなは》だ蘇峰氏に似たり。彼は火災保険生命保険の必要を論述せんとして曲亭馬琴の夢想兵衛を引き、日本に於ける金銀価格の歴史を論ぜんとして先哲叢談に朱舜水《しゆしゆんすゐ》が日本金価廉也、中国百[#二]倍之[#一]といへるを引けり。所謂《いはゆる》眼光紙背に透《とほ》る者、書を読む、斯の如くにして始めて書を活《い》かすべし。天下の書は何人も自由に読むを得べし。然れども読者の多くは宝の山に入れども手を空《むなし》うして還れり。人は秘密を語る者なり、然れども慧眼を具する者に非んば其秘密を捉む能はざるなり。田口君が「史海」に用ふる材料は未だ嘗《かつ》て他人の用ふる材料に異ならざるなり。然れども一たび田口君の手を歴《へ》れば新しき物となりて出で来るなり。ミダス[#「ミダス」は底本では「シダス」]は其杖に触るゝ総《すべ》ての物を金にしたりき。田口君は其眼に触るゝ物を以て、直《たゞち》に自家薬籠の中の材となす。
(四)真面目  彼は詐《いつは》らんには余り聡明なり、胡麻化《ごまか》さんには余り多感なり。自ら見る明故に詐る能はざる也。良心の刺撃太だ切、故に胡麻化す能はざるなり。彼は屡々自ら胡麻化したるが如く言へり。然れども其自ら胡麻化したりと公言する所以《ゆゑん》は即ち其正直なる所以なり。彼の文中には屡々「妻女にのろき」、「眼を皿にして」など言へる洒落たる文字あれども、而《しか》も是れ彼が正直にして多感的なるを掩《おほ》はんとする狡獪《かうくわい》手段なるのみ。
 試みに彼に向つて一|駁撃《ばくげき》を試みよ。彼は必ず反駁するか冷評するか、何かせざれば止まざるなり。彼れは自家の位地を占むることに於て毫末も仮借《かしやく》せざるなり、彼れは議論に負けたとか勝つたとか言ふことを頗《すこぶ》る気にするなり。言ふこと勿《なか》れ、是れ彼の短所なりと。吾人を以て之を見る是れ彼れの正直なる所なり。彼れは自ら野暮《やぼ》と呼ばるゝを嫌ふべし。然れども彼の斯の如くに野暮なるは即ち彼をして名利の為め、栄誉の為めに節を売らしめず、独立独行、其議論を固守して今日に至らしめし所以なり。彼をして福地源一郎氏の如く明治の大才子となりて浮名を流すに至らざらしめし所以也。
(五)自信  彼は艱難《かんなん》の中に人と為り自己の力を以て世に出で、自己の創意を以て文壇に立ちたれば経験は彼に自信《セルフ・コンフィデンス》を教へたり。「阿母よ榎本氏に屡々行くこと勿れ、彼れに求むるの嫌あれば」と曰ひたる蒼顔の青年は此時より既に自ら其力を信じたりき。彼れは外山正一氏の駁論に対して驚かざりしなり。外山は実に一たびは我文学界にボルテアの如き嘲罵《てうば》の銕槌《てつつゐ》を揮《ふる》ひたりき。彼れは其学識を衒《てら》ひて、ミル、スペンサー、ベンダム、ハックスレー、何でも御座れと並べ立てゝ傲然《がうぜん》たること猶《なほ》今の井上博士が仏人、独逸人、魯人、以太利人、西班牙人の名を並べて下界の無学者を笑ひ給ふが如くなりき。(井上氏に言ふ、余は山路弥吉と称す、名を隠して議論の責任を遁るゝ者に非ず)。然れども彼は外山と議論を上下して優に地歩を占めたりき。加藤弘之氏が「人権新説」を
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