明治文学史
山路愛山
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)非《あら》ずや。
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)是|豈《あに》明治の
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「糸+(囚/皿)」、第3水準1−90−18]
[#…]:返り点
(例)白旗不[#レ]動兵営静なり
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)喧々《けん/\》たらん
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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序論
飛流直下三千丈、疑是銀河落九天。
是|豈《あに》明治の思想界を形容すべき絶好の辞に非《あら》ずや。優々閑々たる幕府時代の文学史を修めて明治の文学史に入る者|奚《いづくん》ぞ目眩し心悸《しんき》せざるを得んや。
文学は即ち思想の表皮なり、乞ふ思想の変遷を察せしめよ。
封建の揺籃《えうらん》恍惚《くわうこつ》たりし日本は頓《にはか》に覚めたり。和漢の学問に牢せられたる人心は自由を呼吸せり。鉄の如くに固まれるものは泥の如くに解けたり。維新の始めに方《あた》りてや、所謂智識を世界に求むるの精神は沛乎《はいこ》として抑ゆべからず。天下の人心は飢渇の如く新しき思想新しき智識を追求めたり。其錦旗を飜《ひるがへ》して東海道に下向し、山の如き関東の勢を物の数とせざりしが如き議政官に上局下局を設けて公議輿論を政治の標準とし、世界第一の民政国たる米国に擬せんとせしが如き政治的冒険の花々しく、恐ろしく、快絶奇絶なりしが如く、当時の思想界の冒険も亦《また》孟賁《まうほん》をして後《しり》へに瞠若《だうじやく》たらしむる程の勢ありき。若《も》し明治元年より今日に至るまで日本の思想史を分ちて上中下の三となさば其上代は即ち極めて大胆なる、極めて放恣《はうし》なる、而して極めて活溌なる現象を有する時代にして、加藤弘之氏が「真政大意」を作りて人民参政の権利を以て自然の約束に出《い》でたりと論じ、福沢諭吉氏が西洋事情世界|国尽《くにづく》しの如き平民的文学を創《はじ》めて天は人の上に人を作らずと喝破《かつぱ》せしが如き、将又《はたまた》明六社なる者が其|領袖《りやうしう》西|周《あまね》、津田|真道《まみち》、森有礼等に因《よ》りて廃刀論、廃帝論、男女同権論の如き日本歴史に未曾有《みぞう》なる新議論を遠慮会釈なく説《と》き立てしが如き、中村敬宇先生が自助論を飜訳し耶蘇教の洗礼を受けしが如き、皆是れ前例なく先蹤《せんしよう》なく、前人の夢にだも思はざる所迄に向つて先づ手を附けし者なり。其勢水の堤を破りて広野を湿すが如く浩々滔々として禁ずべからず、止むべからず。千里の竜馬|槽櫪《さうれき》の間を脱して鉄蹄を飛風に望んで快走す、何者も其奔飛の勢を遏止《あつし》する能《あた》はず、何物も其行く所を預想する能はず。
既にして奔《はし》る者は疲れたり。回顧の時代は来れり。成島|柳北《りうほく》、栗本|鋤雲《じようん》の諸先生が新聞記者として多くの読者を喜ばすに至りたるは何故ぞ。反故《ほご》の中に埋るべき運命を有せりと思はしめたる漢詩文が再び重宝がられ、朝野新聞の雑録及び花月新誌の一瀉《いつしや》千里の潮頭が忽《たちま》ち月の引力に因りて旧の岸に立廻らんとせしに非ずや。英語階梯や「リードル」を携へて洋学先生の門に至りしものが更に之を抛《なげう》ちて再び漢学塾を訪ひ、古老先生の教を拝聴せしものは何故ぞ。余りに急走したる結果が大なる休息を求むるに至りたる故に非ずや。
然《しか》れども第十九世紀の大勢は後へを圧せり。疲れたりと雖《いへど》も中止すべからざるなり。填然《てんぜん》として之に鼓《つゞみう》ち兵刃既に交はるに及んでは勢勝敗を決せざるべからず。其一兵一卒の疲れたるが為めに全軍の掛引を変ずべからず。福沢諭吉氏を除きては先輩諸子の既に殆《ほと》んど倦色を著はせし当時に於て田口|卯吉《うきち》氏は経済に於て自由貿易論を主張し、馬場|辰猪《たつゐ》氏は政治上に於て自由民権を説き、中江|篤介《とくすけ》氏は社会的に平民主義を論じ、星、大井の諸氏は法律論を唱へ、此回顧的退歩的の潮流に抗し民心を激励|鞭撻《べんたつ》して此切所に踏み止《とゞま》り、更に進歩的の方角に之を指導せんとせり。是|蓋《けだ》し明治思想史の中世紀なりとす。
思想は来れり。之を表はすべき文学は如何《いかん》。蓋し心に思ふより口に言はるゝなりとは思想界に於て正当に来るべき順序にして思想は必ず脩辞《しうじ》の前に来る者なり。思想ある者は必ず之を正当に言顕はすべき言語を求めずんばあらず。上来|陳《の》べ来りしが如き新日本に生じ来れる
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