へいげい》せる布衣《ほい》の学者は日本の人心を改造したり、少くとも日本人の中に福沢宗と曰《い》ふべき一党を形造れり。

     才子論

 読者の恕を乞ふ、吾人は福沢君を論ずる前に先づ才子論を試むべし。
 人品を拝まずして衣裳を拝むは人類の通癖なり。
 世の人物を論ずる者、官爵を以て論じ、位階を以て論じ、学位を以て論ずるが如きは固より言ふにも足らぬ者也。而して彼の学問を以て人を論ずる者の如きも亦多くは衣裳を拝むの類なるを如何せん。
 天下の人、指を学者に屈すれば必ず井上哲次郎君を称し、必ず高橋五郎君を称す。吾人は幸にして国民之友紙上に於て二君の論争を拝見するを得たり。井上君|拉甸《ラテン》語、伊太利亜語、以斯班牙《イスパニア》語を引証せらるれば高橋君一々其出処を論ぜらる。無学の拙者共《せつしやども》には御両君の博学あり/\と見えて何とも申上様なし。去りながら博学畢竟拝むべき者なりや否や。若《も》しもシェーキスピーアを読まずんば戯曲の消息を解すべからずとせばシェーキスピアは何を読んでもシェーキスピアたりしや。若しも外国に通ぜずんば大文豪たる能《あた》はずんば、未だ外交の開けざる国に生れたる文家は三文の価値なき者なりや否や。二君の博学は感服の至りなれども博学だけにては余り難[#レ]有くもなし、勿論《もちろん》こはくもなし、然るに奇なるかな世人は此博学の人々を学者なりとてエラク思ひ、学問は二の町なれど智慧才覚ある者を才子と称して賞讃の中に貶《おと》す。是豈衣裳を拝んで人品を忘るゝ者に非ずや。
 才子なるかな、才子なるかな、吾人は真の才子に与《くみ》する者也。
 吾人の所謂《いはゆる》才子とは何ぞや。智慧《ウィスドム》を有する人也。智慧とは何ぞや、内より発する者也、外より来る者に非る也。事物の真に達する者なり、其表面を瞥見《べつけん》するに止る者に非る也。自己の者也、他人の者に非る也。智慧を有する人に非んば世を動かす能はざる也、智慧を有する人に非んば人を教ふる能はざる也。更に之を詳《つまびらか》に曰へば智慧とは実地と理想とを合する者なり、経験と学問とを結ぶ者なり、坐して言ふべく起《た》つて行ふべき者なり。之なくんば尊ぶに足らざる也。
 吾人の人を評する唯正に彼の智慧|如何《いかん》と尋ぬべきのみ。たとひ深遠なる哲理を論ずるも、彼れの哲理に非ずして、書籍上の哲理ならば、何ぞ深く敬するに足らんや。たとひ美を論じ高を説くも其人にして美を愛し、高を愛するに非んば何ぞ一顧を価せんや。自ら得る所なくして漫《みだ》りに人の言を借る、彼れの議論|奚《いづくん》ぞ光焔あり精采あるを得んや。博士、学士雲の如くにして、其言聴くに足る者少なきは何ぞや。是れ其学自得する所なく、中より発せざれば也。彼等が唯物論として之を説くのみ、未だ嘗《かつ》て自ら之を身に躰せざる也。故に唯物論者の経験すべき苦痛、寂寥《せきれう》、失望を味はざる也。彼等が憲法を説くや亦唯憲法として之を説くのみ、未だ嘗て憲法国の民として之を論ぜざる也、故に其言人の同感を引くに足らざるなり。彼等の議論は彼等の経験より来らざる也、彼等の智識は彼等の物とはならざる也。
 明治の文学史は我所謂才子に負ふ所多くして彼の学者先生は却《かへ》つて為す所なきは之が為なり。

     事実の中に活くる者

 吾人をして福沢翁に返らしめよ。吾人は彼れの事実の中に棲《す》む人なるを知る。
 翁の書を読みもて行けば恰《あたか》も翁に伴うて明治歴史の旅行を為すが如し、漢語まじりの難解文を作り臂《ひぢ》を振つて威張りし愚人も、チョン髷《まげ》を戴きて頑固な理屈を言ひ、旧幕時代を慕つて明治の文明を悪《にく》む時勢|後《おく》れの老人も、若しくは算盤《そろばん》を携へて、開港場に奔走する商人も、市場、田舎、店舗、学校、渾《すべ》ての光景は我眼前に躍如《やくじよ》として恰も写真の如くに映ず。翁は真個に事実中に活《い》くるの人也。嗚呼是れ古今文学上の英傑に欠くべからざる一特質なり。時世を教へ、時勢を動かすの人は皆是れ、時勢を解するの人也。

     福沢諭吉君及び其著述(二)

 曰《いは》く学問の勧め、曰く文明論概略、曰く民間経済論、曰く時事小言、福沢君の著述が如何《いか》計《ばか》り世間を動かしたるよ。吾人の郷里に在るや、嘗《かつ》て君の世界国尽しを読んで始めて世界の大勢を知りたりき。「天は人の上に人を造らず」の一語が如何に深く日本青年の脳裏に喰込みしよ。楠公の忠節は権助の首くゝりの如してふ議論が如何に世論を沸騰《ふつとう》せしめしよ。而して慶応義塾派の一隊が如何計り社会に勢力たりしよ。
 毀誉褒貶《きよはうへん》の極めて多きは其人の尋常ならざるを証する者也。「ホラを福沢、嘘を諭吉」てふ嘲罵が彼れの上に蒙りしより以来今日
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