に至るまで或は大俗人の如く、或は自利一辺の小人の如く、或は大山師の如く、種々様々の論評は彼に向けられしかども、槲樹は痩地にも根を深くし、雨にも風にも恐れずして漸く天を突くの勢を為せり。一是一非の間に彼れは発達して明治の大家となれり、中村敬宇氏が元老院に死し、西周、神田孝平の諸先生が音も香もなくなりし時代に於て、言換れば明治の文運が新時代を生じたる今日に於て彼れは猶文界の巨人として残れり。時事新報は今日も猶彼れの議論を掲げて天下に紹介せり。彼れの論ずる所は雑駁《ざつぱく》にせよ、堅硬《スタビリチイ》を欠くにせよ、其混々たる脳の泉は今日に至るまで猶流れて涸《か》るゝことをなし。是豈驚異すべきに非ずや。
吾人の彼れに敬服する所は彼れが何処《どこ》までも「平民」として世に立てること是也。彼れは真個にミストル・フクザハを以て満足する者也。彼れは自ら其職分を知れり、自ら其技能を知れり。彼れは衣貌を以て、官爵を以て人に誇る者に在らず、自己の品位は即ち自己に在ることを知れり。彼れは斯くの如くにして世を渡れり、斯くの如くにして自ら律し、併せて世を教へたり。明治の時代に平民的模範を与へたる者、己の生涯を以て平民主義を解釈したる者は彼れに非《あら》ずして何ぞや。
而して吾人の彼れに敬服する第二の点は其事務家的能力是也。所謂《いはゆる》幹事の才なる者は蓋し彼に於て始めて見るべし。之を聞く彼れの時事新報を書くや些少《させう》の誤字をも注意して更正すること太《はなは》だ綿密なりと。吾人は嘗て彼の原稿なるものを見しことあり、其|改刪《かいさん》の処は必ず墨黒々と塗抹《とまつ》して刪《けづ》りたる字躰の毫も見えざる様にし、絶えて尋常書生の粗鹵《そろ》なるが如くならず。嗚呼《あゝ》是れ彼れが成功の大原因に非ずや。彼れは何事にも真面目なり。其軽妙婉転たる文章も本《もと》是れ百錬千鍛の裏に出で来る也。誠実なる人也。其眼に一種の威厳ありて其口の一字を書せるが如く締りたるは明かに彼れの人物を示せる者也。
文学者としての福沢諭吉君
(一)平民的文学 学問の勧めが世の中に歓迎せらるゝ頃は文学は平民的ならざる可《べか》らずてふ思想は一般の風潮なりしが如し。明六社中の論文も、岸田吟香氏の新聞も東京日々新聞の如きも皆|殆《ほと》んど言文一致の躰裁を以て書かれたり。「ナント熊公堂だへ「時に旧平さんと云へるが如き冒頭を以て誰れにも読まるゝ如く書かれたる者多かりき。此点に於ては当時の識者は今日の文人に勝《まさ》れりと曰ふべし。文は達意を旨とする者也。最も簡易にして誰れにも通ずるを善しとすとは当時に於て何人も首肯する所なりき。
而して福沢氏の文章は当時より今日に至るまで毫も其躰裁を改めず、何人にも解し易きのみならず、読み去りて一種の味あり。極めて俗なれども厭《あ》くことなく、人をして覚えず巻を終へしむ。夫《か》の蓮如の「御文章」は彼れが理想の文学なりと聞きつれども彼れの文は単に文のみとして論ずるも蓮如に勝ること数等也と云ふべし。
(二)自得する所あり 彼れが文章に斯《かく》の如く一種の味ある所以《ゆゑん》は何ぞや。彼れは其語る所に於て自得する所あれば也。彼れは固より深遠なる哲学を有せざるべし。天地の表彰《シンボル》を通じて神霊を見るが如き超越的《トランセンデンタル》の直覚を有せざるべしと雖《いへど》も、彼れはたしかに人生てふ経験を有せり。彼れは社会、政治、経済、人情を貫通する数条の道理を理会せり。故に之を語るや、即ち自家嚢中の物を出すなり。彼れは飜訳的に語らざる也、代言的に語らざる也、直ちに自家の胸臆《きようおく》を語る、故に其言自ら快聴すべき也。
福沢諭吉君
彼の天職《ミッション》
鳬《けり》短く鶴長し、柳は緑、花は紅、人豈吾と同じうすべけんや。此星の栄は彼の星の栄に異なり。福沢君の天職は日本の人心に実際的応用的の処世術を教ふるに在り。怜悧《れいり》なる商人を作り、敏捷《びんせふ》なる官吏を作り、寛厚にして利に聡《さと》き地主を造るに在り。彼は常に地上を歩めり、彼れは常に尋常人の行く所を行けり。彼は常に平直なる日本人民の模範を作らんとなしつゝあり。
封建破れて、昨夢未だ覚めず。新しき世界に古き精神を逗《とゞ》めたる明治の初年に方《あた》りては、彼の喝破せし此主義が如何に開化党に歓迎せられて守旧党に驚愕せられたるよ。彼は一方には神の如く一方には悪魔の如く眺められたる者は之に因るのみ。然れども駸々《しん/\》たる時勢の潮流は日々に彼れの党派を加へ来りて、天下の幾分は殆んど福沢的に化するに至れり。彼れは其天職を畢《を》へしなり。
彼れは党派の首領のみ、国民の嚮導者には非らず
然れども彼れは一党派の首領のみ、国民の嚮導者《
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