れが今の「史海」の作者田口君の筆に因つて書かれしものなることを思へば田口君の才の寧ろ早熟にして、爾来《じらい》大なる変化なく古の田口は猶今の田口の如くなるに驚かざるを得ず。人の才は猶鉄の如し、鍛錬一たび成れば終《つひ》に変ずべからざる乎。抑《そも/\》亦修養の工夫《くふう》一簀《いつき》に欠かれて半途にして進歩を中挫せしか。或は「十で神童、十五で才子、二十になれば並の人」てふ進むも早く退くも早き日本人の特性は田口君も例外たる能はざる乎。
吾人は嘗て思へり、日本開化小史の最も優れたる所は其思想の発達と物質的の進歩とを観察せし点に在り、日本開化小史巻の四に於て日本文学の変遷を序述し、上宮太子の憲法十七条より説起し平安朝の四六文を評論し、進んで和文世に出でゝ言語と文章の漸《やうや》く親密に近《ちかづ》きし事情を叙する所、鋭敏なる観察力は火の如く耀《かゞや》けり。其王朝文学より鎌倉文学に至るまでの結論に曰く、
[#ここから1字下げ]
王政柔弱に帰し学士を保護する能はざるに至りて我国の文学漸く独立の萌《きざし》を得、其|将《ま》さに傾覆せんとするに至つて始めて見るべきの書あり。
[#ここで字下げ終わり]
と鉄案断乎として易《か》ふべからず、爾来十余年日本文学史を書くもの(たとへば三上、高津二学士の如き)多しと雖も未だ此の如き精覈《せいかく》なる批評眼を見る能はざるなり。而して物質的の進歩に注意せしは経済学者たる彼の特質固より斯の如くなるべき也。
田口鼎軒先生に対して[#地から2字上げ]愛山生
[#ここから1字下げ]
君を指してマンチェスター派と曰ひたるは君が自由貿易を主張し、保険事業を以て政府に属すべからずとなし、国を建つるの価は幾何《いくばく》ぞと論じ、個人主義世界主義を唱へられしが為也。されど余は此事に就きて極々の素人なれば君が果してマクレオッドやらバスチヤやらそんな事は存ぜぬなり。斯《かゝ》る詳細の系統は専門家たる君の命に従はん。余が君を以て天文方の子なりとせしこと、君が母氏の榎本氏に行ことを否《いな》みたりと云ふ二事は余が静岡に在りし頃家大人の談話に聞きたり、故に信じて書けり。しかれども君自ら間違なりと曰はるれば間違に間違なかるべし。君の漢文が御上手にや御下手にや余|亦《また》素人也何ぞ解せん。しかし是は或る老先生が田口も善いが其漢文には閉口すると云ひたりとか云ふ評判なれば其儘《そのまゝ》掲げたる耳《のみ》。余自身には御立派な御文章のやうに拝見|仕候也《つかまつりさふらふなり》。
[#ここで字下げ終わり]
田口卯吉君と其著述(四)
田口君の史論に関し大欠点と覚ゆるは彼れの人物に重きを置かざることなり。彼れの史論は余りに因果づくめなり。斯《か》うすれば斯うなる者、斯《かゝ》る場合には斯る現象を生ずと予《あらかじ》め人事を推断して、而して史を評する者なり。若き男女を一室に置けば時として恋話を生ずべし、然《しか》れども亦生ぜざることもあるべし、人間の万事唯一の常感を以て論ずべくんば、此世は実に動かすべからざる宿命の支配する所也。然れども人類は斯の如き者に非《あらざ》るなり、英雄の行為は時として尋常の外に飛び出づることあり、時勢は人を作る者なれども、人も亦時勢を作る者也。歴史家の眼中は決して人物を脱すべからざる也。
田口君固より人物を論ぜざるに非ず、然れども不幸にして田口君の著す所の人物は平凡の人物なり、彼れの筆は英雄を写し出す能はざる也。彼れは人物に向つて同感の情少なき也。史上の人物に対して敬畏崇拝の念を生ずる如きは田口君に於ては蓋しなき所也。熱情は或は人をして判断を過らしむることあるべし、然れども熱情ある人に非れば活《い》きたる人物を写し出すこと能はざる也。史海にも、日本開化小史にも吾人は君が英雄崇拝の迹《あと》を見るを得ざる也。
人物論は論理学の為し能ふ所に非る也、論理学を以て人物を論ぜんとせば直ちに人物を破毀すべきのみ。人を知るの最もなる道は直覚なり、同感なり、詩人的の識認なり、不幸にして彼れは之を欠けり。
福沢諭吉君及び其著述(一)
田口君に就きて猶言ふべきこと多けれども、そは他日機会を見て此処《こゝ》に掲《かゝ》ぐべし、乞ふ吾人をして眼を明治文学史の巨人なる福沢諭吉君に転ぜしめよ。
明治五年二月より明治十年十月まで学問ノ勧《スヽ》メ発売高合して五十九万八百四十六部、彼れが明治の開化史に於て偉大なる影響を及ぼしたるや知るべきのみ。彼れは実に無冠の王なりき。英雄の事業一成し一敗す、維新の大立者たる西郷隆盛は城山の露と消え残るは傷夷《しやうい》と国債とのみ。松菊、甲東|空《むな》しく墓中に眠りて、而して門下の故吏|徒《いたづ》らに栄ふ。而して此間に方《あた》りて白眼天下を睥睨《
前へ
次へ
全9ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
山路 愛山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング