追はず、人物を論ぜず、明治文学の現象として起りたる何物をも怠らず観察して之を論評し、末に於て全般の観察をなさんと欲す。

     吾人が所謂文学なる者の釈義

 文章即ち事業なりとは吾人の深く信じて疑はざる所なり。事業の全躰を以て文章なりと曰《い》はゞ固より誤謬《ごびう》なるべし。然れども文章世と相|渉《わた》らずんば言ふに足らざるなり。
 北村|透谷《とうこく》君なる人あり。吾人が山陽論の冒頭に書きたる文章は事業なるが故に崇むべしと曰ひしをば難じたり。然れども彼は吾人を誤解せるのみ。彼は吾人を以て夫《か》の宗教家若しくは詩人、哲学者が世界的《ウヲルドリイ》と呼べるところの事業に渉らずんば無益の文章なりと曰ひたるが如く言へり。如何《いか》なれば彼の眼|斯《かく》の如く斜視する乎。彼は自らを高くし、高、壮、美、崇、恋などいふ問題は恰《あたか》も自己独占の所有品にして吾人の如き俗物が(彼の見て以て俗物とする)関せざる所なるが如く言へり。彼は吾人を誣《し》ひて吾人の思はざることを思ひたるが如く言へり。
 吾人が文章は事業なりと曰ひしは文章は即ち思想の活動なるが故なり、思想一たび活動すれば世に影響するが故なり。苟《いやしく》も寸毫《すんがう》も世に影響なからんか、言換ふれば此世を一層善くし、此世を一層幸福に進むることに於て寸功なかつせば彼は詩人にも文人にも非《あらざ》るなり。若し「事業」てふ文字を以て唯見るべき事功となさんには、若し「世を渉る」てふ詞を以て物質的の世に渉ることなりせば吾人の文章は事業なりと言ひしは誤謬なるべし。然れどもキリストの事業が三年の伝業に終らざるを知らば(彼の事業は万世に亘れる精神界の事業なり)、エモルソンの言へる如く大著述家は短き伝記を有することを知らば(彼の世と渉るは書中に活きたる彼の精神に在り)、吾人が斯く言ひしは当然なることなり。

     批評とは何ぞや

 吾人は明治の著作及著者を批評せんとて立てり。批評とは何ぞや、夫《そ》の中に愛憎の念を挾み、妬評《とひやう》、諛評《ゆひやう》、悪言|罵詈《ばり》を逞《たくまし》くし、若しくは放言高論高く自ら標し、己を尊拝して他人を卑しみ、胸中自家の主義を定めて人を上下するが如き者奚ぞ批評の消息を解せん。
 透谷子又曰く
[#ここから1字下げ]
 他を議せんとする時|尤《もつと》も多く己れの非を悟る
前へ 次へ
全18ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
山路 愛山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング