て心静かに、形勢を観望した。しかし間もなく、勝家に次ぐ名望家、丹羽長秀の言葉が紛糾の一座を決定に導いた。長秀曰く、子を立てるとしたら此場合、信雄信孝両公の孰《いず》れを推すかは頗《すこぶ》る問題となるから、それより秀吉の言の如く、嫡孫の三法師殿を立てるのが一番大義名分に応《かな》って居るように思われる。其上、今度主君の仇《あだ》を討った功労者は、秀吉である、只今の場合、先ず聴くべきは先君の敵《かたき》を打った功労の者の言ではあるまいか、と。――戦国の習い、百の弁舌より一つの武功である。議すでに決し、柴田、丹羽、池田、羽柴の四将は、各々役人を京に置き、天下の事を処断する事となった。この清洲会議の席上で、勝家が、秀吉を刺さんことを勧めたと云う話や、秀吉発言の際、勝家声を荒らげて、己れの意に逆うことを責め、幼君を立てて天下を窺う所存かと罵《ののし》り、更に信雄等が奥へ引退いた後、衆を憚《はばか》らず枕を持ち来らしめ、寝ながら万事を相談し、酒宴になるや秀吉は上方《かみがた》の者で華奢《きゃしゃ》風流なれど、我は北国の野人であると皮肉って、梅漬を実ながら十四五喰い、大どんぶり酒をあおり、大鼾《おおいびき》して臥《ふ》した等々の話があるが、これ等は恐らく伝説であろう。しかし勝家の忿懣《ふんまん》は自然と見えて居たので、秀吉は努めて慇懃《いんぎん》の態度を失わずして、勝家の怒を爆発させない様にした。信長の領地分配の際にも、秀吉は敢て争わなかったのである。そればかりではない。勝家が秀吉の所領江州長浜を、自らの上洛の便宜の故を以て強請した時も、秀吉は唯々として従って居る。ただ勝家の甥の佐久間盛政に譲る事を断って、勝家の養子柴田伊賀守に渡すことを条件としたに過ぎない。しかしこの事は、秀吉の深湛遠慮の存する処であるのを、勝家は悟らなかった。危機を孕《はら》んだままに、勝家秀吉の外交戦は、秀吉の勝利に終ったが、収まらぬのは勝家の気持である。直後秀吉暗殺の謀計が回《めぐ》らされたのを、丹羽長秀知って、密《ひそ》かに秀吉に告げて逃れしめた。勝家の要撃を悟って、秀吉津島から長松を経て、長浜に逃れて居る。自分でこんな非常時的態度に出て居るので、勝家の方でも亦、秀吉の襲撃を恐れて、越前への帰途、垂井《たるい》に留り躊躇《ちゅうちょ》する事数日に及んだ。だが、秀吉はそんな小細工は嫌いなので、それと聞く
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