て居る者には、次男信雄、三男信孝及び、信忠の子三法師丸がある。この三人のうちから誰を立てて、主家の跡目とするかが、清洲会議の題目であった。植原|館《やかた》の大広間、信雄信孝等の正面近く、角柱《かくばしら》にもたれて居るのは勝家である。勝家の甥三人も柱の近くに坐した。秀吉は縁に近く、池田武蔵入道|勝入《しょうにゅう》、丹羽五郎|左衛門尉《さえもんのじょう》長秀等以下夫々の座に着いた。広間の庭は、織田家の侍八百人余り、勝家の供侍三百余と共に、物々しい警固だつた。一座の長老勝家、先ず口を開いて、織田家の御世嗣には御利発の三七信孝殿を取立参らせるに如《し》くはない、と云った。勢威第一の勝家の言であるから、異見を抱いて居る部将があっても、容易に口に出し難い。満座粛として静まり返って居るなかに、おもむろに、異見を述べたのは秀吉である。「柴田殿の仰《おおせ》御尤のようではあるが、信孝殿御利発とは申せ、天下をお嗣参らせる事は如何《いかが》であろう。信長公の嫡孫三法師殿の在《おわしま》すからには、この君を立て参らせるのが、最も正当であると存ずるが、如何であろう」と。言辞鄭重ではあったが、勝家と対立せざるを得ない。静り返っていた一座は、次第にさざめき来ったのであった。勝家の推した信孝は、三男と云うことになっては居るが、実は次男なのだ。信雄信孝とは永禄元年の同月に生れ、信孝の方が二十日余りも早かったのだが、信雄が信忠と母を同じくしたのに引かえ、信孝は異腹であったので、人々信雄を尊んで、早速に信長に報告し、次男と云うことになって仕舞った。信長に対する報告が早かったので、信雄が次男になったのである。信雄は凡庸の資であるが、信孝は、相当の人物である。長ずるに及んで、秘《ひそ》かに不遇をかこって居たのも無理はない。勝家を頼ったのも、尤であるし、勝家またこれを推して、自らの威望を加えんと考えたのも当然であろう。しかるに秀吉の反対は、一座を動揺せしめたが、秀吉の云い分にも、正当な理由がある。『太閤記』などには、信忠―秀吉、勝家―信孝の間には、往年男色的関係があったなどとあるが、それが嘘にしても、常からそういう組合せで仲がよかったのだろう。勝家を支持するもの、秀吉を是とする者、各々主張して譲らず、果しなく見えた。勝家の苦り切るのは当然である。秀吉この有様を見て、中座して別室に退き、香を薫じ、茶をたて
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