賤ヶ岳合戦
菊池寛

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)一方《ひとかた》でなく、

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(例)尾州|清洲《きよす》の

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(例)[#天から3字下げ]
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       清洲会議之事

 天正十年六月十八日、尾州|清洲《きよす》の植原次郎右衛門が大広間に於て、織田家の宿将相集り、主家の跡目に就いて、大評定を開いた。これが有名な清洲会議である。
 この年の六月二日、京都本能寺に在った右大臣信長は、家臣|惟任《これとう》日向守光秀の反逆に依って倒れ、その長子|三位《さんみ》中将信忠も亦、二条の城に於て、父と運命を共にした。当時、織田の長臣柴田|修理亮《しゅりのすけ》勝家は、上杉景勝を討つべく、佐々|内蔵助《くらのすけ》成政、前田又左衛門利家、佐久間|玄蕃允《げんばのすけ》盛政、及び養子伊賀守勝豊以下を率いて、越中魚津に在陣中であった。本能寺の変が報ぜられたのは、同月四日の夜に入ってからであるが、陣中の周章は一方《ひとかた》でなく、戦半ばにして、勝家は越前に、盛政は富山に引き退いた。又滝川左近|将監《しょうげん》一益も、武蔵野に於て、北条左京大夫|氏政《うじまさ》と合戦中であったが、忽《たちま》ち媾和して、尾州長島の居城に帰った。更に森勝蔵長勝は、上杉家と争って居たのだが、信濃川中島へ退き松本を経て、美濃に退いて居た。さて最後に、羽柴筑前守秀吉であるが、当時、中国の毛利大膳大夫輝元を攻めて、高松城水攻をやっていたが、京都の凶報が秀吉の陣に達したのは、六月三日|子《ね》の刻であるが、五日の朝まで、信長生害の事を秘して、終《つい》に毛利との媾和に成功した。和成るや飛ぶが如くに馳せ上って、光秀の虚を山崎|宝寺《たからでら》天王山に衝き、光秀をして三日天下のあわれを喫せしめた。この山崎合戦が、まさに、秀吉の天下取りの戦争であった。そして信長の遺した事業に対し、偉大なる発言権を握ったわけだ。勝家以下の諸将が、変に応じて上洛を期したけれども、秀吉の神速なる行動には及ぶべくもなかった。だが、信長の遺児功臣多数が存する以上、すぐ秀吉が天下を取るわけには行かない。遺児の中|何人《なんぴと》をして、信長の跡に据えるかと云うことが大問題であった。さて信長信忠の血を享《う》け
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