や、信長の第四子で秀吉の義子となって居る秀勝を質として、勝家の下に送った。勝家|漸《ようや》く安心して木の本を過ぎて後、秀勝をやっと帰らしめた。此時からもう二人の間は、お互に警戒し合っている。こんな状態で済む筈はなく、ついに賤《しず》ヶ|岳《だけ》の実力的正面衝突となった。
勝家は越前に帰り着くと、直《ただ》ちに養子伊賀守勝豊に山路将監、木下半右衛門等を添えて長浜城を受取らしめた。勝家は、秀吉或は拒んで、戦のきっかけになるかも知れない位に考えたであろうが、秀吉は湯浅甚助に命じて、所々修繕の上あっさりと引渡した。秀吉にして見れば一小城何するものぞの腹である。争うものは天下であると思っていたのだ。既に秀吉は自ら京に留り、山崎宝寺に築城して居住し、宮廷に近づき畿内の諸大名と昵懇《じっこん》になり、政治に力を注いだから、天下の衆望は自《おのずか》ら一身に集って来た。柴田を初めとした諸将の代官なぞ、京都に来ているが、有名無実である。更に十月には独力信長の法事を、紫野大徳寺に行った。柴田等にも参列を勧めたが、やって来るわけもない。芝居でやる大徳寺焼香の場面など、嘘である。寺内に一宇を建て総見院と呼んだ。信長を後世総見院殿と称するは此時からである。
中原《ちゅうげん》に在って勢威隆々たる秀吉を望み見て、心中甚だ穏かでないのは勝家である。嘗《か》つて諸将の上席であった自分も、この有様だと、ついには一田舎諸侯に過ぎなくなるであろう、――秀吉の擡頭《たいとう》に不満なる者は次第に勝家を中心に集ることになる。滝川一益もその反対派の一人であるが、この男が勝家の短慮を鎮《しず》めて献策した。即ち、寒冷の候に近い今、戦争をやるのは不利である。越前は北国であるから、十一月初旬から翌年の三月頃までは雪が深い。故に軍馬の往来に難儀である時候を避けて、雪どけの水流るる頃、大軍を南下せしむべし、と云うのである。勝家喜び同心して、家臣小島若狭守、中村|文荷斎《ぶんかさい》をして、前田利家、金森|長近《ながちか》、不破彦三を招き寄せた。勝家の云うよう、「某《それがし》とかく秀吉と不和である為に、世上では、今にも合戦が始るかの様に騒いで穏かでない。今後は秀吉と和し、相共に天下の無事を計りたい考であるから、よろしく御取なしを乞う」と。前田等|尤《もっとも》千万なる志であるとして、途中長浜の伊賀守勝豊をも同道
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