い出話をした事がある。「金の脇立物、朱漆《しゅうるし》の具足の士と槍を合せたが、その武者振見事であった」と語った処が、その武者が主人の河内であることが判り、互に奇遇を嘆じたと云う話がある。中学の教科書などに出ている話である。それはとにかく、盛政の軍は、拝郷、青木等の働きで何とか退軍を続けて居た。暁暗の四時過ぎ、秀吉は猿ヶ馬場に床几を置かせ、腰打かけて指揮を執って居た。さて、安井左近大夫、原彦次郎等もようよう引退いて、盛政と一手になったので、盛政少し力を得て、清水谷の峠へ退いて備を立直そうとしたが、秀吉の軍は矢鉄砲を打って追かけるので、備を直す暇もなく崩れた。彦次郎左近大夫二人は、一町毎に鉄砲の者十人、射手五六人|宛《ずつ》伏せて、二人代る代るに殿《しんがり》して退こうとするが、秀吉先手の兵が忽ちに慕い寄るので、鉄砲を放つ暇《いとま》もない。止むなく、飯之浦《いいのうら》に踏み止まろうとした。加藤虎之助、桜井左吉進み出て、盛政の陣立《じんだて》直らぬうちに破らん事を秀吉に乞うた。秀吉笑って許さず、馬印を盛政勢の背後の山に立置く様に命じて置いて、菓子を喰い茶を飲んで悠々たるものである。柴田勝政は三千余騎で、賤ヶ岳の峰つづき堀切辺りで殿戦して居たが、兄盛政から再三の退軍を命ぜられたので、引取る処を秀吉軍の弓銃に会い、乱軍となって八方に散った。落ちて行くうちに不意に秀吉の千成瓢箪が行手に朝日を受けて輝き立って居るので、周章狼狽した。秀吉この有様を見て居たが、すは時分は今ぞ、者共かかれと下知し、自ら貝を吹立てた。夜も全く明けた七時頃、秀吉は総攻撃を命じたのである。旗本の勢も一度に槍を取って突かかったが、真先に石川兵助、拝郷五左衛門と渡合ったけれども、五左衛門が勝った。兵助の首を取ろうとする処へ、盛政の使来って相談すべき事があるから直《すぐ》に来れと命を伝えた。五左衛門聞入れず、引くべき場所を引取らぬ不覚人の盛政、今更何の相談ぞ、既に北国の運命尽きる日ぞと云って返し戦う。糟屋《かすや》助右衛門、好敵と見て五左衛門と引組んだ。助右衛門、ついに上になり首を掻こうとするのを、五左衛門すかさず下から小刀で二刀まで突上げたが、鎧堅くて通らず討たれて仕舞った。佐久間勝政も庭戸浜で戦って居たのを、加藤虎之助同孫六真一文字に突かかり難なく追崩した。浅井吉兵衛、山路将監も今は防ぐ力もなく下余吾方
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