た。更に一人に、漕ぎ返って、海津表七千騎の内三分の一を此方《こちら》へ廻せと命じた。この火急の場合、五里の湖上を漕ぎ返っての注進で、間に合いましょうやと尋ねると、いや別段急ぐわけでもない。只今長秀、賤ヶ岳へ援軍すると云えば、敵軍は定めし大兵を率いて来たものと察して猶予の心が出るであろう。其間に馳せ着けばよいのだ、と云棄てて直《ただち》に賤ヶ岳に上った。賤ヶ岳では折柄悪戦の最中であるから、長秀来援すと聞いては、くじけた勇気も振い起らざるを得ない。盛政の方では長秀|来《きた》ると聞いて、気力をそがれて、賤ヶ岳を持て余し気味である。此時刻には、秀吉の大軍も木の本辺に充ち満ちて居たのである。先発隊は田上《たがみ》山を上りつつあったのであるが、そのうち誰云うとなく、盛政の陣中で、秀吉来れりと云って俄《にわ》かに動揺し出した。拝郷五左衛門尉、盛政にこの由を報ずると、「慌《あわ》てたる言葉を出す人かな、秀吉飛鳥にもせよ十数里を今頃馳せ着け得るものにや」と相手にしない。処が弟勝政、不破彦三の陣所からの使は、美濃街道筋は松明|夥《おびただ》しく続いて見え、木の本辺は秀吉勢で充満すと見えたりと報じたので、流石強情我儘の盛政も仰天しないわけにはゆかなかった。此状勢を保って居られる筈はないから、早々陣を引払って、次第に退軍しようと試みた。先に長秀の応援でいい加減気を腐らして居た盛政の軍は、今また秀吉の追撃があるとなると、もう浮足立つ計りである。十一時過ぎ、おそい月が湖面に青白い光をそそぐ頃、盛政の軍は総退却を開始した。二十一日の午前二時には秀吉の軍田上山を降り、黒田村を経て観音坂を上り、先鋒二千の追撃は次第に急である。拝郷五左衛門尉取って返し、身命を惜まず防ぎ戦うが、味方は崩れ立ち始めて居る。盛政は荒々しい声で、拝郷等は何故に敵を防がぬかと叱ったので、五左衛門尉|嘲笑《あざわら》って、御覧候え、我々が身辺、半町ほどは敵一人も近付け申さず。ただ敵勢鋭きが為に味方振わないのである。此上は面々討死をして見せ申そうと計りに、青木勘七、原勘兵衛等と共々に、追い手の中に馳せ入った。青木勘七は血気の若武者で、真先に進んで忽ち五人まで突落したとある。この青木は後に越前に在って青木紀伊守|一矩《かずのり》に仕えたが、ある時同じ家中の荻野河内の館《やかた》で、寄合いがあった際、人々に勧められて、余呉湖畔戦の想
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