に落行く処を、渡辺勘兵衛、浅井喜八郎大音挙げて、見知ったるぞ両人、返し戦えと挑戦したが、二人共山の崖を踏外して谷底へ転げ落ちた。麓を通る大塩金右衛門の士|八月一日《ほずみ》五左衛門に討ち取られたと云うが、一説には加藤虎之助と引組み、崖から二三十間も上になり、下になりして転げ落ちた末、ついに将監首を獲《と》られたとも伝える。直木三十五氏が、加藤清正は山路将監を討った以外、あまり武功がないとけなしていたが、山路将監を討ったと云ふ事も伝説に近いのである。宿屋七左衛門尉は鳥打坂の南で、桜井左吉と戦って、左吉に痛手を負わせた処を、糟屋助右衛門来った為に、両人の為に討止められた。佐久間勝政も、飯之浦で福島市松、片桐助作、平野権平、脇坂甚内等の勇士が槍先を並べてかかるのを、兵四人までを切落して戦ったが、遂に斬死した。盛政も、奮戦したが、総軍今は乱軍のまま思い思いに退却である。盛政例によって大音声を挙げ、味方の諸士臆病神が付いたのか、と罵ると、原彦次郎曰く「仰せの如く味方の兵が逃げるのは、大将に臆病神取付いて引返して備うる手段を採らない故である。退軍に勝利のあるわけがない」と云い放った。盛政一言もなしである。前田利家父子は二千騎をもって備えて居たが、敗軍と見るや、華々しい働きもなく早速に府中に引取った。利家の出陣は、別段、勝家の家臣であるからでもなく、ただ境を接するの故をもってであり、且つ秀吉とは寧ろ仲が善かった位であるから、体のいい中立を持したわけである。此合戦に先んじて、秀吉利家の間にある種の協定さえあったと思われるのである。丹羽長秀、これを見て時分はよしと諸砦《しょさい》に突出を命じた。北国勢全く潰《つい》えて、北へ西へと落ちて行った。小原新七等七八騎で、盛政等を落延びさせんと、小高き処で、追い来る秀吉勢を突落して防いで居るのを、伊木半七真先に進んで、ついに小原等を退けた。
 此時の合戦に、両加藤、糟屋、福島、片桐、平野、脇坂七人の働きは抜群であったので、秀吉賞して各々に感状を授け、数百石|宛《ずつ》の知行であったのを、同列に三千石に昇らしめた。これが有名な賤ヶ岳七本槍である。石川兵助、伊木半七、桜井左吉三人の働きも、七本槍に劣らなかったので、三振の太刀と称して、重賞あったと伝わって居る。
 さて北軍の総大将勝家は、今市《いまいち》の北狐塚に陣して居たのであるが、盛政の敗軍伝
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