八

 四年の月日は過ぎた。
 玄白は、ターヘルアナトミアの稿を更えること十二回に及んだ。が、篇中、未解の場所五カ所、難解の場所十七カ所があった。玄白は、ひたすらに上梓を急いだ。が、良沢は、未解難解の場所を解するまではとて、上梓を肯《がえ》んじなかった。
 良沢と玄白とは、それについて幾度も論じ合った。が、二人はいくら論じ合っても、一致点を見出《みいだ》さなかった。それは、二人の蘭学に対する態度の根本的な相違だった。
 玄白は、とうとう自分一人の名前で、ターヘルアナトミアの翻訳たる解体新書を上梓する決心をした。が、さすがに彼は、良沢の名を無視するわけにはいかなかった。翻訳の筆記こそ、玄白の手によって行われたものの、翻訳の功は、半ば良沢に帰すべきものだったから。
 玄白は、良沢を訪うて序文を懇願した。が、良沢は序文をも、次のようにいって断った。
「いや、拙者かつて九州を歴遊いたした折、太宰府の天満宮へ参詣いたした節、かように申して起誓したことがござる。良沢が蘭学に志を立て申したは、真の道理を究めようためで、名聞《みょうもん》利益のためではござらぬゆえ、この学問の成就するよう冥護を垂れ
前へ 次へ
全34ページ中32ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング